聖徳太子に関する最古のまとまった伝記資料と評価されているのが、『上宮聖徳法王帝説』です。
平安時代前期の成立と見られています。少し気になっていたので、口語訳をこころみました。
「古代史獺祭」さんのテキストと、沖森卓也氏・佐藤信氏・矢嶋泉氏『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』の校訂をもとにしています。
いまひとつ明快な文章にならず、申し訳ないです。
それとは別に、用語がかなり難しくて、文章と関係無いところで意味がわからなくなりそうですね。人名や古代文献特有の用語、仏教用語については、上記の本や岩波文庫の『上宮聖徳法王帝説』の注をご覧になるといいかもしれません。これらの本は原文と訓読文、注釈だけで、現代語訳は載っていません。
■は現存の写本で欠けているため訳せない文字。
節ごとの見出しももちろん原文にはありません。わかりやすいだろうということで、つけておきました。
[ ]は分注です。
( )は原文にはない注です。
目次
1.聖徳太子のきょうだいたち
上宮聖徳法王帝説。
伊波礼池辺双槻宮(いわれいけのべのなみつきのみや)で天下を治めらられた橘豊日(たちばなのとよひ:用明)天皇が、庶妹の穴太部間人王(あなほべのはしひとのひめみこ)を娶って大后とし、お生みになった子は、厩戸豊聡耳聖徳法王(うまやどのとよとみみのしょうとくほうおう)、つぎに久米王(くめのみこ)、つぎに殖栗王(えくりのみこ)、つぎに茨田王(まんだのみこ)である。
また、天皇が蘇我伊奈米宿祢大臣(そがのいなめのすくねおおみ)の娘で、名は伊志支那郎女(いしきなのいらつめ)を娶ってお生みになった子は、多米王(ためのみこ)である。
また、天皇が葛木当麻倉首(かずらきのたぎまのくらのおびと)、名は比里古(ひりこ)の娘である伊比古郎女(いひこのいらつめ)を娶ってお生みになった子は、乎麻呂古王(おまろこのみこ)、つぎに須加弖古女王(すかてこのひめみこ)である。[この王女は、伊勢の神前に斎き奉って、三代の天皇の御世に至った。]
合わせて、聖王の兄弟姉妹は七人の皇子女がいらっしゃる。