大田別ノート

物部厨どもが夢、それとも幻。

神社


花の窟


2011年8月に紀伊半島を一周してきたときの写真です。
三重県熊野市有馬町の、花窟(はなのいわや)神社。

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谷川健一編『日本の神々』には、地元漁民の話として「熊野灘の沖からは、神倉山山頂のゴトビキ岩と花の窟があたかも一対のように望まれ」なんて書かれていますが、結構距離があるので、海上の同じ場所から両者を見るのは難しいんじゃないかしら。実際に船の上から確認したわけじゃないので、無責任なことはいえませんが。

この日は熊野大花火大会で交通規制が敷かれて、熊野市駅前までバスが入れず大変でした。すごく混雑していました。
駅前のコインロッカーは当然すべて埋まっていたため、荷物は抱えて持っているしかなく、猛暑の中、駅から神社まで歩くのはキツかったです。

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書紀の神代上第五段第五の一書に
「伊弉冉尊、火の神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。かれ、紀伊国熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、この神の魂を祭るには、花の時にはまた花を以て祭る。また鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る」
とある、伊弉冉尊を祀り弔う斎場にあてられるのが、この神社。
「巨石」信仰といわれることも多いですが、石や岩というよりも岩肌の崖といったほうがしっくりきます。本殿を持たず、この崖に向かって参拝します。

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国神神社と椀貸山古墳

国神神社


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福井県坂井市丸岡町石城戸町に鎮座する国神神社。延喜式神名帳の越前国坂井郡に、「国神神社」がみえます。
2009年のゴールデンウィークのときの写真です。
『式内社調査報告』を見ると、旧社地は現在の丸岡城の地にあり、城の築造によって現在地へ移転してきたという話が載っていました。丸岡城からは、150mほどの距離でしょうか。近いです。

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祭神は、椀子(まろこ)皇子。継体天皇が倭姫(三尾君堅の娘)との間にもうけた皇子と『日本書紀』にあり、三国公氏の祖とされます。
三国は越前国坂井郡一帯で、まさに当地の豪族の始祖ですね。
ほかに、継体天皇の母・振媛命と、継体天皇の五代前の先祖・応神天皇が配祀されます。

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椀子皇子が祭神に比定されたのは、丸岡という地名が椀子に似ているためというのもあるようです。
社名が「国神」なので、本来は国津神か、もしくは国魂神を祀っていたのかもしれません。

大きくて特徴的な幹の木もありました。

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椀貸山古墳

坂井市丸岡町坪江の椀貸山古墳です。
国神神社からは北へ4kmほど、もう少しであわら市に入るという場所です。現在は某社工場の敷地内になっており、門の外からでも、まるんとした後円部が見えます。

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横山古墳群を構成する一基。
墳丘全長42m、後円部径28mの前方後円墳で、前方部を北に向けています。周濠を持つといいますが、田地化や工業用地化を経て、今ではかつての面影はないようです。
二段築成の墳丘だそうですが、見た目にはよくわかりませんでした。

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主体部に片袖式の横穴式石室を持ち、後円部中央から西側のくびれ部に向かって開口していたらしいです。
今は埋め戻されて、石室内部を見ることはできません。奥壁に赤色顔料の塗られた、石屋形があるといいます。

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古墳の名称は、椀貸し伝説があることによります。石室内に土器が残っていて、それを見た人でもいたのでしょうか。
また、椀子皇子の墳墓とする説もあるようです。
三国氏ゆかりの地域の有力古墳であるだけでなく、時代的にも六世紀前半ころの築造で、皇子の世代をあてるに矛盾はないようです。

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継体天皇の母・振媛の出自を三尾氏にあてる説があります。そうすると、継体は母の一族から稚子媛(若比売)と倭媛のふたりを娶っていることになります。三尾氏には本拠地を越前とする説、近江とする説がありますが、いずれにせよ、継体にとって勢力の足元を固める婚姻ということになります。
倭媛との結婚も、尾張氏など他の地域の妻妾よりも早く、若いころのもので、椀子皇子も継体の皇子女たちのなかでは年長の部類に入るのかもしれません。

墳丘上の様子。

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初出:「国神神社と椀貸山古墳」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51922014.html 2011年04月16日

羽咋神社

羽咋神社

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石川県羽咋市川原町に鎮座する羽咋神社。延喜式神名帳の能登国羽咋郡に羽咋神社があります。
参拝したのは2009年のゴールデンウィークのことです。
先に羽咋駅前から気多大社へ行き、戻ってきてから徒歩で向かいました。

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祭神は石撞別命。
相殿に石城別命と弟苅幡刀弁命が祀られます。

磐衝別命は垂仁天皇の皇子で、その出生については日本書紀の垂仁三十四年春三月条に逸話が載っています。
山城国へ行幸した天皇は側近の者から、山背大国不遅のむすめで綺戸辺という美人がいることを聞き、矛を使った占いをして吉兆と出たので、綺戸辺と召して後宮に入れた。彼女が磐衝別命を生み、その後裔が三尾氏である。
というものです。

古事記でも、石衝別王は、山代の大国之淵のむすめである弟苅羽田刀弁を母として生まれた垂仁天皇の皇子で、羽咋君氏と三尾君氏の祖であるといいます。

磐衝別命は天皇に即位しない、いわば傍流の皇子ということになります。日本書紀のような、出自を逸話をまじえて説明する記述のされ方は、やや特殊です。(仲哀天皇の母の両道入姫命も綺戸辺を母とするが、この文中には磐衝別命しか登場しない)

この特殊さを説明すると思われるのが、釈日本紀が引く上宮記、継体天皇の系譜を明らかにした部分です。
継体天皇の母・振媛(布利比弥命)は伊久牟尼利比古大王(垂仁天皇)の七世孫とされ、両者を繋ぐ系譜のなかに、「伊波都久和希」や「伊波智和希」がみえます。「磐衝別」とその子の「磐城別」を指すものと見られています。
つまり、日本書紀は継体天皇との関わりで、磐衝別命の母についての話を採用したと考えられそうです。
また、磐城別(石城別王)については、景行紀に三尾氏の祖とみえ、妹の水歯郎女が天皇妃となり、五百野皇女を生んだとあります。

ちなみに先代旧事本紀(天皇本紀)は、記紀の所伝に反し、丹波道主王のむすめの真砥野媛を磐撞別の母とします。
綺戸辺自体の存在が無かったことにされていますから、適当にそれ以外の妃の子にあてられてしまったものでしょうか。
国造本紀には羽咋国造がみえ、三尾君の祖の石撞別命の子の石城別王を国造に定めたといいます。ただし補任の時期は雄略朝とあり、景行天皇の時代に活躍したとされる磐城別とは時期が合いません。なんらかの混乱があるようです。

これらの史料によると、石撞別命と石城別命は、越前国坂井郡水尾郷などを拠点とし六呂瀬山古墳群など古墳時代前期から後期まで有力な古墳を築き続けた福井平野の勢力=三尾君の始祖であると同時に、羽咋君=羽咋国造の祖でもあることがわかります。
羽咋神社は、この地域で最も有力な勢力をほこった国造一族の奉斎によるものと見てよいでしょう。

面白いことに、神社の境内には、石撞別命と石城別命の墳墓と称する古墳があります。
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日撫神社

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滋賀県米原市顔戸の日撫神社。2009年の参拝でした。
山津照神社からは北西に約1.5kmほどのところです。
鎮座地名の顔戸(ごうど)は神戸に由来すると見る説があります。

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『延喜式』神名帳の近江国坂田郡に、「日撫神社」がみえます。
明治期以来、『神社覈録』『神社志料』など、『姓氏録』の河内国諸蕃にみえる火撫直氏と社名の日撫を関連づける見方が広く行われてきたようです。これだと阿智使臣(阿知使主)の後裔とされますから、東漢氏族の展開が想定されますが、近年では特に有力な見解ではないようです。

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一帯は後別当古墳などの古墳が点在する地域で、息長氏の影響をこの神社にも考える見方があり、社伝もそれに拠っています。神功皇后の祖先が代々住んだ地で、皇后がこの地を慕うことは深く、三韓から凱旋したのち祠を建て、父の息長宿祢王および国土経営と医薬に功のある少毘古名命を祀ったことを創始とする、というものです。
継体天皇の擁立勢力に息長氏をあてる説が有力化し、さらにそれに対する批判としてこの一帯の古墳の検討がなされ、息長氏と当地とのかかわりはせいぜい5世紀後葉までにしか遡れないことが明らかにされています。神功皇后云々がのちの付会であることは明らかです。しかし、息長氏縁故の地に鎮座するという点は動かしがたく、その関与による創建という可能性を考えるのは無駄ではないと思います。

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下馬石。
「書は平安時代中期の書家で日本三跡の一人小野道風の作と言われている」
と案内がありましたが、本当でしょうか。

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初出:「日撫神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51893088.html 2011年01月05日

立野神社

茨城県水戸市谷津町の立野神社です。
くれふしの里古墳公園から北方2kmほどのところにあります。参拝は、去年(2009年)の6月でした。
『延喜式』神名帳に載る、常陸国久慈郡の立野神社の論社のひとつなのだそうです。

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しかし、ここは旧那賀郡…
久慈郡からは離れていて、遷座してきたとも思えません。どういう比定がされたものでしょうか。

常陸大宮市のほうにも同じ社名の論社があって、そちらは物部氏族立野連の創建ともいわれているようです。
ここはどうなんでしょうね。

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祭神は級長津彦命・級長戸辺命。
『日本書紀』には、天武四年四月十日に、美濃王と佐伯広足を遣わして、風神を竜田の立野に祭らせたことがみえます。この地名の立野によって、風の神である級長津彦命らが祭神と考えられたのでしょう。

ちなみに、立野連のウヂ名も、同じく大和国竜田の立野を本拠にしたことにもとづくと考えられます。

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周囲を木々に囲まれ、古社の雰囲気は満点です。
集落からも少し距離があるので、静かで、落ち着いた境内でした。

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県道52号線、このあたりは道幅が狭いですね…。


初出:「立野神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51880675.html 2010年11月22日

ヤマトタケルの墓 1/2


武備塚

伊勢へ出かけたのは、2006年のゴールデンウィークのこと。
日本武尊ほどの有名人になると、墓地の比定地はいくつもあるようです。
三重県鈴鹿市長澤町の長瀬神社境内にある、「武備塚」もそのひとつです。

まずは神社の写真。

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長瀬神社は、『延喜式』神名帳の伊勢国鈴鹿郡に見える式内社です。
現在の祭神は、もちろん倭建命。
東大阪市に同じ名前の神社がありますが、無関係のようです。

社殿を右に見ながら奥へ進むと、このような「日本武尊御陵道」があります。

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そしてこれが武備塚。
塚…といっても、それほど高い盛り土が残っているわけではありません。うずたかい感じでした。

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塚の上に立ってるのは碑です。
『古事記』で倭建が亡くなるときに詠んだとされる歌「愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も」が彫ってあります。
明和七(1771)年のものらしいです。

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直径約25mの古墳時代後期の円墳かともいわれますが、実際のところはどうなんでしょうね。
江戸時代には、当地を治めた亀山藩がこれを日本武尊の墳墓としていたため、最も有力な候補でした。

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久米多神社

福井県坂井市丸岡町下久米田に鎮座の久米田神社。
参拝したのは、2009年の5月です。
『延喜式』神名帳の越前国坂井郡に、「久米多神社」が見えます。

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祭神は、大伴金村大連です。

大伴金村といえば、武烈天皇や継体天皇らの即位において黒幕ともいわれる人物。皇統の維持に力を尽くした人とされています。
境内の由緒書(案内板)には、継体天皇即位の後
「再び高向の里を訪ねられた継体天皇が、大伴金村大連のそのお働きに深く感謝され建立されたと伝えられています」
と創建の由来が記されていました。

金村を神と崇めたのは継体天皇なんですか?
書紀によれば金村は継体天皇の死後も安閑・宣化・欽明天皇に仕えたとされていて、つまり祀られたのは生前のことになってしまうのですが…
興味深い社伝ですね。

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社名の「久米多」から、来目部が設置されたことが推測可能なのですが、来目部は久米氏を介在させて大伴氏の配下にあったものと見られます。
金村が祭神にあてられるのは、これと継体天皇縁故の地域であることを合わせ考えられた結果なんでしょうね。

後背の山の上に、六呂瀬山古墳群があります。
継体天皇の母、振媛の出身氏らしい三尾氏の一族の奥津城ともいわれています。
四世紀後半には造営が開始されており、一帯にはその後も脈々と有力な古墳が営まれ続けることから、在地の勢力がかなり強かったことが想定できると思います。
来目部もそこから割き取って設置ということになるかと思います。

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境内の入り口に、「弥六岩」という石がありました。
案内板によると、
弥六さんはたいそうな力持ちで、用水に架かる橋が時々傷んで村人が困っているため、石の橋を作ることを思い立ち、二里も離れた山奥から、長さ八尺もある大岩をかついできた…
という伝説が、この石にはあるようです。

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現状は八尺もあるようには見えませんが橋材の割れてしまった残りという可能性もあるのかしら?
用水路の水は豊かに流れていました。

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初出:「久米多神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51845504.html 2010年07月29日

高向神社

福井県坂井市丸岡町高田の高向神社。参拝は去年(2009年)のゴールデンウィークでした。
延喜式神名帳の越前国坂井郡に、同名の神社があり、その比定社とされています。

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書紀に、継体天皇は幼少のころに父の彦主人王を亡くし、母の振媛は故郷である当地に戻り、天皇を育てたとあります。
そのときの振媛の言葉とされるもののなかに、
「余、高向に帰寧ひがてらに、天皇を奉養らむ」
とあり、高向の注として「越前国の邑の名なり」とあります。
和名抄にみえる、越前国坂井郡「高向郷」がこの一帯にあてられています。

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そんなわけで、祭神は振媛と応神天皇です。
継体天皇は応神天皇の五世孫という触れ込みで即位しましたからね。

振媛の出自については垂仁天皇の七世孫と、書紀は少しぼかしてありますが、古事記に石衝別王の後裔とある三尾氏が有力視されています。釈日本紀に引く上宮紀の系譜で、振媛(布利比弥)が伊波都久和希の子孫とされているからです。

ここ丸岡・松岡地域は、古墳時代前期から後期まで、断絶することなく有力な規模の古墳が継続して営まれた場所で、振媛は北陸随一の名族のお姫様だったと考えられます。

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神社はこじんまりとして周囲を田畑に囲まれた小さな集落のなかにあります。常駐の神職の方もいらっしゃらない、普通の神社です。

境内の由緒書には、「武内宿祢六世の孫高向氏」に縁故の地で、振媛もその氏の出だとありました。
高向氏は新撰姓氏録の右京皇別上にある高向朝臣のことと思われます。
「石川同氏。武内宿祢六世孫猪子臣之後也。」とあって、たぶんこれに発想を得て書かれた由緒なのでしょう。猪子臣は舒明即位前紀にみえる高向臣宇摩の父ともいわれるそうで、氏は天武十三年に臣姓から朝臣姓になっています。
本拠地には、河内国錦部郡の高向(河内長野市高向)をあてるのが通説のようです。
蘇我氏からの分岐は稲目と同時代とする見解もあるようですが、いずれにせよ六世紀のことで、振媛をこの氏と関係させるのは難しいようです。

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同じ由緒書に、振媛は彦主人王との間に三児をもうけたと書かれていたのがちょっと気になります。
男大迹王は第一皇子だそうなので、ふたりの弟か妹がいたことになってるんでしょうね。小さい子が三人もだなんて、振媛かわいそうです。
でもどうしてこんな設定にされてしまったんでしょうね。

特に遺構が出てきたわけではないようなんですが、「高向の宮跡」は町指定の史跡になっているそうです。
こうやって貴重な伝承を守ろうというのですね。

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案内板は上の古いものと、下写真の新しいものとで二つありました。

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振媛想像図が描かれています。
初投稿時、「かなり上手い絵で素敵」と感想したら、歴史イラストレーターの早川和子氏によるものだという情報をいただきました。なるほど納得。

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飛鳥むかしむかし 飛鳥誕生編 (朝日選書)
早川和子
朝日新聞出版
2016-08-10



初出:「高向神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51838221.html 2010年07月06日

酒折宮

山梨県甲府市酒折に鎮座する神社、酒折宮です。
参拝は2005年の夏だったと思います。買い換え前のデジカメで撮った画像なので…
ネタ切れしたら使おうと放置していたのが、ついに順番が巡ってきました。

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JR中央本線の酒折駅から徒歩だと近いです。
私はマイカーだったんですが、上の写真のとおり、一台分の幅の道が参道で、国道411号線(城東通り)からの入り口がわかりづらく、一端通りすぎてから、戻ってたどり着きました。

ヤマトタケル尊の東征伝承に登場することで有名。祭神ももちろん日本武尊です。
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「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」
という問いかけの歌を詠んだものの、側近のものは誰も答えることができず、ただ御火焼老人(書紀では秉燭者)だけが、
「日日並べて 夜には九夜 日には十日を」
と返したとされ、連歌発祥の地ともいわれます。

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この御火焼老人について、静岡大学名誉教授の原秀三郎氏がユニークな解釈をされています。
物部氏の人物なのではないか、という説です。
書紀では大伴氏の祖、武日に靫部を賜ったことも見え、ここで行われていたのが東征における論功行賞と見られること、古事記に御火焼老人が任じられたとある「東国造」は東国全域を統括する重要ポストであり、通説のように身分の低い者が任じられるには不自然であることなどを述べられています。
詳しくは原先生の著書、『地域と王権の古代史学』に載っています。

地域と王権の古代史学
原 秀三郎
塙書房
2002-08-24


「老人」の表現が、殿様の側近に仕える守役や家老で使われる「じい」と同じようなものなのではないか、という見方が面白いです。

山梨県甲府市下曽根町の銚子塚古墳も、この御火焼老人(物部じい)に関係するとされていたので、立ち寄ってみたかったのですが、時間的に足りなくて行けませんでした。

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本殿を撮ろう…と思ったんですが、木に覆われていて全然撮れてませんね。

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背後の丘にある「シャトー酒折ワイナリー」のエントランスには、ヤマトタケルと御火焼老人のステンドグラスがあるそうです。


初出:「酒折宮」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51829241.html 2010年06月09日

山津照神社

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滋賀県米原市能登瀬に鎮座する、山津照神社。
昨年(2009年)のゴールデンウィーク旅行の三日目に、米原駅前でレンタカーを借りて、一番最初の目的地にしたのがここでした。
上の写真のように、拝殿の前が芝生の広場になっていたのが印象的。きっと休日の日中に来たら、近所の子供たちが遊んでいたりするんでしょうね。

参道も下の写真のように、ほとんど芝だったと思います。玉砂利を敷いた厳かな感じもいいですが、こういうのも親しみが持てていいな、と思います。

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境内には、前方後円墳の山津照神社古墳があります。
主軸は参道とほぼ並行し、くびれ部あたりを少し削るようにして、境内社の八幡神社が建っています。

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墳丘の長さは、三つもあった案内板のうち、最も新しいものによると、46.2m。家形石棺を納めた横穴式石室と、そこから出土した遺物から、6世紀前半ころの築造と見られるようです。
塚の越古墳など一帯の古墳とともに群を成します。息長古墳群です。
天野川流域を基盤とした集団の奥津城と見られ、息長氏を被葬者にあてる説が有力なようです。

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この古墳についても、神功皇后の父、息長宿祢王の墓とする見方が一部でされていたようですね。
明治15年の参道拡張工事のときに発見された古墳なので、よく「そういう伝説がある」と古くから語り継がれているような言い方がされている点は疑問なのですが。古墳の存在自体は古くから知られていて、工事を口実にして主体部を掘り起こしちゃったのかしら。

このように、息長氏に縁故の場所の神社ということで、祭神や創建の事情についても息長氏と関連づける見方が、明治以降ずっと主流のようです。
ただ、神社側からはあまり積極的に主張されているというわけでもないようで、現在の祭神は国常立尊となっています。

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拝殿も本殿も立派で、落ち着いた雰囲気ですね。
息長古墳群は、5世紀代には有力な古墳を持たず、6世紀に入って前方後円墳を築くようになります。
この点、継体天皇との繋がりを考える人が多いです。天皇の妃のうち、麻組郎女は息長真手王の娘といいます。

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下の写真は手水舎です。
センサーが設置してあって、人が近づくと自動で水が出ます。離れてしばらくすると止まります。ハイテク。

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初出:「山津照神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51800249.html 2010年03月20日
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