大田別ノート

物部厨どもが夢、それとも幻。

常陸


立野神社

茨城県水戸市谷津町の立野神社です。
くれふしの里古墳公園から北方2kmほどのところにあります。参拝は、去年(2009年)の6月でした。
『延喜式』神名帳に載る、常陸国久慈郡の立野神社の論社のひとつなのだそうです。

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しかし、ここは旧那賀郡…
久慈郡からは離れていて、遷座してきたとも思えません。どういう比定がされたものでしょうか。

常陸大宮市のほうにも同じ社名の論社があって、そちらは物部氏族立野連の創建ともいわれているようです。
ここはどうなんでしょうね。

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祭神は級長津彦命・級長戸辺命。
『日本書紀』には、天武四年四月十日に、美濃王と佐伯広足を遣わして、風神を竜田の立野に祭らせたことがみえます。この地名の立野によって、風の神である級長津彦命らが祭神と考えられたのでしょう。

ちなみに、立野連のウヂ名も、同じく大和国竜田の立野を本拠にしたことにもとづくと考えられます。

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周囲を木々に囲まれ、古社の雰囲気は満点です。
集落からも少し距離があるので、静かで、落ち着いた境内でした。

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県道52号線、このあたりは道幅が狭いですね…。


初出:「立野神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51880675.html 2010年11月22日

「くれふしの里」牛伏古墳群

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くれふしの里古墳公園を訪ねたのは、2009年6月のこと。はに丸タワーすごいですね。この存在感。

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高さ17.3メートルあるそうです。
「機動戦士ガンダム」に登場するジオンの主力モビルスーツ、MS-06ザクは17.5メートルという設定なので、「ザクってこれくらいの大きさなんだなあ」と想像するにもうってつけですね。

内部には、「希望のはにわ」というものが仕込んでありました。解説に
「はにわの口にそっと手を入れてごらん。古代から、宇宙からのメッセージがあなたに届くよ」
なんて書かれていました。うさんくさいな。
作ったのは当時の内原町(水戸市と合併して消滅)ですが、よくやってくれたと思っちゃいます。

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あれですね、「ローマの休日」にも出てきた「真実の口」のパク…リスペクトアレンジですか。
私が行ったときには電源が落とされていたようで、口の中にに手をつっこんでも何も起こりませんでした。

ほかにも、水鳥型埴輪のような水飲み場があったりで楽しいです。

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東屋のかたちが前方後円型です。
下から見たのではわからないので、はに丸タワーありきの築造ですね。

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公園の名称の「くれふし」は、『常陸国風土記』那賀郡茨城里条にある、くれふし山から取ったそうです。
あれは三輪山型神婚譚に分類されるでしょうか。

ある兄妹の妹のもとに、夜な夜な通ってくる男がいて、妊娠して産んだ子は蛇でした。器に蛇を入れておくと、その器は食べ物でいっぱいになる奇跡が常に起こるので、これは神の子だとうということになって、兄妹(蛇の叔父と母)はとても養育しきれるものではない、と判断し、父なる神のもとへ行くように蛇に諭します。
しかし、一人の従者もつけずに追い出されることを嘆いた蛇は、別れの時についにイライラを爆発させ、雷撃で叔父を殺してしまいます。天に去ろうとする蛇に母は器を投げつけると、それに当って天へは昇れなくなり、この山にずっと留まることになりました。子孫が社を建てて祀っています。

という話です。すごく要約しててすみません。
「くれふし山」の「くれ」は暮れと同じ意味なんでしょうね。日が暮れてから神はやってきて夫婦の営みwをしたり、蛇の姿の子も明るいうちはしゃべることができないのに、日が暮れてからは母と仲良く語らったりしていたそうですから。
地名起源説話には本来の意味とは違った語呂合わせもよくあるようなので、ここも別の意味だった可能性はあるのでしょうけど。

現代人的な見方をすると、蛇の姿の子にも、叔父さんにも同情したくなりますよね…
神として崇めてもらいたいなんて願いは持っておらず、ただ家族でいたい気持ちと、神の子と判明した以上は祀らなくてはならないという気持ち。
「爰に子恨みを含みて事吐はず」みたいな表現を見ると、風土記の編纂時には、もうそういった文学的な理解の萌芽があったんじゃないかしらん、と思ってしまいます。
古墳公園のある一帯は、この伝説の舞台の地です。

そんな感じに、楽しい公園でした。
で、古墳公園というからには古墳ももちろんあります。牛伏古墳群が公園内に保存されています。一部は公園の外になっちゃいますが。

以下は古墳の写真です。
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武者塚古墳

今年(2009年)の三月に、茨城県土浦市の“上高津貝塚ふるさと歴史の広場”へ行ったときの写真です。
行田のさきたま史跡の博物館に貼ってあったポスターで、「よみがえる古代の信太郡」という企画展のあることを知ったのでした。かすみがうら市郷土資料館の学芸員で、常陸国の古代について研究されている方がいらして、その講演を聞くのも兼ねて出かけました。

常陸国信太郡といえば、風土記によれば、癸丑年(653年)に物部河内と物部会津の二人が、中央から派遣されていた高向大夫に願い出て、筑波郡と茨城郡から七百戸を割いて設置されたとされている郡。
物部氏は当地の有力豪族で、この後も郡司を出したと推定されているところです。下君山廃寺も、この豪族によって造られたのかしら。出土の瓦も展示されてました。
高来里の普都大神の伝承も、この物部信太連によって伝えられていたものと見ていいです。

そんな感じの興味の持ち方で、展示も講演も楽しく見たり聞いたりできました。
この博物館、名前のとおり上高津貝塚という縄文時代後期の貝塚遺跡を敷地内に保存していて、貝層の断面展示もしてあったりで、小学生から考古マニアまで楽しく見学できそうでいいですね。

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屋外に、土浦市木田余町にあった、東台13号墳の箱形石棺も移築保存されていました。

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案内板によると、古墳時代終末期(7世紀中頃)に築かれた前方後円墳なのだとか。7世紀中頃で前方後円墳か…西国だととっくに終わってるんですよね…やっぱり地域差も見過ごせないんですね。
これは内部。

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それと、たぶん常設展示なのだと思うのですが、土浦市上坂田の武者塚古墳の出土品も見ることができます。
三累環頭大刀は鞘に黒漆塗りが施されたもの。直刀も透かし穴が開いた鍔がつけられていたりでオシャレです。

そして注目はミズラです。埴輪の欠けたものじゃないですよ。被葬者のミズラも出土してます。ついでにヒゲも。
湿度とか、土の酸性の強さとか、いろんな要素が重なって偶然に残ったものなんでしょうね。
展示室内は撮影自由でしたが、撮った写真を勝手に公開していいかどうかは訊いてこなかったのでUPしないでおきます。

遺物を見ているうちに、その古墳も見たくなったので、壁に貼ってあった地図をメモして現地へ。
立派な覆屋があります。古墳だったのかどうかは、ちょっと見ただけではわからなくなってしまってますね。

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なかには入れないので、窓の金網の隙間にカメラを入れて撮りました。

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逆の向きからも。

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筑波山麓の片岩で作られた石室なのですが、ちょっと変わっています。基本はこの地域でよくある箱形石棺を墳丘に直埋めした感じなのですけれど、玄室に前室がつくごとく、石棺に一辺が1mくらいの広さの前室もついています。
石室なんだか石棺なんだか…
前室の外に玄門があるわけではないので、横穴式石室とはちょっと違うような気がするのですが?
横穴が無い状態で、箱形石棺同様に墳丘の中に埋めてしまったら、もう出入りはできないと思うのですけど、部分的に残っていた人骨から、六人の被葬者(うち一人がミズラとヒゲの人)がこの中に埋葬されていたそうで、どうも追葬がされているらしいです。
どうやって追葬するんでしょう。いちいち石棺の上に盛られた墳丘の土を掘り返すんでしょうか。素人にはよくわかりません。

覆屋の外には、武者塚2号墳の箱形石棺も保存されています。もとはここから北へ170mほどのところにあったそうです。

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初出:「武者塚古墳」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51746750.html 2009年11月09日
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