大田別ノート

物部厨どもが夢、それとも幻。

上野


三津屋古墳

奈良県明日香村の牽牛子塚古墳、昨日の新聞でも一面に載ってました。すごいなぁ…
現地見学会の様子は、落王さんをはじめ、既に画像つきでUPされてるところがあって眼福ですね。裾部の石敷きが現代のコンクリートタイルを思わせ、築造当初はさぞ奇麗だったんだろうと思います。


ところで、新聞報道では
「天皇クラスの墓に限定される八角形墳だったことが分かり、被葬者は斉明天皇であることがほぼ確実になった」
とか
「7世紀、天皇陵にのみ許されたとされる八角形墳とわかった」
といったことがいわれています。本当でしょうか。
八角形なら、それを根拠になんでもかんでも天皇陵にしてしまってもいいのでしょうか。

三津屋古墳は群馬県北群馬郡吉岡町の大久保にある古墳です。
7世紀後半に築かれたと見られる、八角形墳です。
去年(2009年)の三月に、花粉と闘いながら見てきました。

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住宅地を抜けると、復元された異様な姿が忽然と現われ、ギョッとしたのを思い出します。
墳丘対角間は23m、一辺約9mほどの規模なのだそうです。
牽牛子塚古墳の墳丘の規模は、対辺長が約22mだそうですから、大きさではあまり変りませんね。

二段築成で周堀も持っていたといいます。そこは復元できなかったようです。
前庭には川原石が敷かれていたみたいです。

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群馬県下で八角形墳といえば、藤岡市の伊勢塚古墳もそうだといわれています。


他には山梨県笛吹市の経塚古墳や、鳥取県鳥取市の梶山古墳も…
この三つは6世紀後半~7世紀初頭くらいに築かれたものなので、牽牛子塚古墳や野口王墓古墳、束明神古墳とは時期が違うから同列に論じることはできないのかもしれません。別の意識によって築かれた可能性があります。

でも、三津屋古墳の場合はどうすればいいのでしょう。時期は7世紀後半と同じなわけで、畿内の八角形墳と似たような価値観・意識で築かれたことを否定するのは困難です。
解決方法はふたつあると思います。

(1)三津屋古墳には天皇が葬られていた
(2)八角形墳が天皇陵に限られるという見方が間違っている

(1)は、日本書紀や延喜式の記述に事実性を認めずに、かなり思い切った視点から解釈することになります。6世紀以降の天皇陵には、史料の記述と齟齬しない古墳が多く、あえてそういったトンデモ史観を持つ必要はないようです。
とすれば、(2)を考えなければなりません。

かつて、上円下方墳を、皇族の墳墓にあてる見方が有力でした。
しかし、清水柳北1号墳(静岡県)や武蔵府中熊野神社古墳・天文台構内古墳(東京都)、野地久保古墳(福島県)の存在は、これに疑問を投げかけました。
八角形墳にも、似たようなにおいを感じます。
調査されておらず墳形が不明な古墳や、擦り減って円墳だと思われている古墳のなかに、八角形墳も含まれているかもしれません。今後、全国的な調査の進展によって、明らかになる日が来るでしょうか。

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では内部へお邪魔します。
扉の鍵はかかっておらず、「開放時間は、午前8時から午後5時までです」「扉は必ず閉めてください」と書かれた札がかかっていました。

なかは石室…というより、見学室でした。
石材はかなり失われています。
墳丘が版築されてるのがよくわかるようになっています。10センチ~20センチ間隔くらいの横縞ですね。

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後代の人が、石室材を割って持っていこうとした跡も残っていて生々しいです。

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【追記:2021年12月】その後、この年の年末、大田皇女の墓にあてうる越塚御門古墳が発見され、牽牛子塚古墳は斉明天皇陵の条件を偶然とは思えないレベルで揃えることになり、天皇陵だったことが確定的になりました。新聞等でも、その段階までは「天皇陵として確実」のような報道は控えてほしかったです。

初出:「三津屋古墳」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51859446.html 2010年09月12日

穂積神社

穂積神社は群馬県高崎市吉井町本郷に鎮座します。私が参拝したときには、まだ多野郡吉井町でした。上信電鉄の西吉井駅からは北西に300mほどの場所です。
上野国内神名帳の多胡郡(多野郡は多胡郡と緑野郡などが合併してできた)に見える「従五位上 穂積明神」にあてられる神社です。

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ちなみに、同郡には「従三位 物部明神」もあります。「従二位 辛科明神」(たぶん辛科神社の神様)に次ぐ神階の高さの神なんですが、それっぽい神様を祀る神社を見つけることができませんでした。
式内社ほど、比定に関心が高くないようで、そのあたりの情報もなかなかつかめませんね。
「祭神経津主命」という神社、境内社も含めると結構ありそうですが、一ノ宮の貫前神社の影響が強い地域なので、探しにくいのです。

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境内の案内板(平成八年に氏子の方々が建てたらしい)によると、鎮座地には元々「火蛇神社」があり、明治四十二年に近隣の「科社神社」、「諏訪神社」、「諏訪神社」が合社され、新たに「穂積神社」の号を称するようになったようです。
「カジャ(火蛇・科社)」という神が国内神名帳の「穂積明神」と同一神とする比定がされたのでしょうか。あまり聞かない神様ですね。どういう性格を持っているのでしょう。

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「穂積」の号だけだと、稲穂を積みあげる豊作の神という解釈も成り立ちますけど、この地域の物部氏との関係の深さを考えるとき、物部氏族・穂積臣との関係を想定したほうが妥当のような気がします。

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物部氏族の穂積氏がらみということで、本来なら「天璽瑞宝」でUPしたかったのですが、上述のとおり情報が少なく、まとめることができませんでした。ネタ的には弱いのでこっちに上げておくことにします。
周辺は基本は農地で静かないい雰囲気でした。しかし住宅地も近くに広がってきているようで、十年先、二十年先もこの景観かどうかはわからないですね。


初出:「穂積神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51704600.html 2009年08月12日

箕輪と三ツ寺の石上寺

群馬の話です。

原島礼二氏は、1979年発行の教育社歴史新書『古代の王者と国造』において、つぎのようにいっています。

「椿山の上には中世の城跡がある。箕輪城といい、このあたりを支配していた長野氏の居城である。この長野氏の菩提寺は布瑠山石上寺とよばれ、あの大連守屋をだした物部氏の子孫、石上氏とおなじ名をもつ。そのうえ布瑠は、奈良県天理市石上の古い地名でもあった。また長野氏はもと石上氏を名のっていた。
(中略)
新興勢力が台頭した背景には、倭王権の大連をつとめた、物部氏の力があったように思われるのである。
(中略)
この物部氏が、上毛野の旧勢力を打倒するために前記の新興勢力を支援し、その首長を物部の一管理者に組織したので、物部君という豪族がこの地域で、奈良時代になってもなお力をもっていたのであろう」

古代の王者と国造 (教育社歴史新書 日本史 16)
原島 礼二
ニュートンプレス
1979-03T


五世紀後半ころ、雄略天皇は在地系豪族の勢力を削ぐことに熱心だったようで、奈良盆地西部の馬見古墳群や北部の佐紀盾列古墳群、吉備の古墳などをはじめとして、それまで大型の古墳を築いていた地域でも小型化・衰退するという現象が全国的に起こっていきます。
しかし、逆にそれまでまったく有力な古墳を築いていなかった地域に、大型古墳が現われるようなことも見られます。これは、雄略天皇(王権)と強いつながりを持った集団の奥津城と考えられます。武蔵の埼玉古墳群が代表的な例です。

上毛野も例外ではなく、東日本最大の規模を誇る群馬県太田市の天神山古墳を築いた勢力はこの時期没落してしまったようで、代わって台頭するのが高崎市の旧群馬町域にある保渡田古墳群の勢力のようです。

保渡田古墳群の被葬者として、現在最も有力視されているのが、「東国六腹の朝臣」のひとつとして知られる車持氏で、『姓氏録』左京皇別に車持公氏が「雄略天皇の御世に、乗輿を供進れり。よりて姓を車持公と賜ひき。」という伝承を持ったり、「クルマもち」のウジ名が地名「グンマ」と結びつけられて考えられるなど、高い蓋然性を持っていると思います。

これには異論もあります。
原島先生の説もそうで、中央の物部連の支援を受けながら当地の物部を管理した物部君を保渡田古墳群の被葬者にあてようというものです。
この古墳群のうち二子山古墳のある井出には、「上布留」「下布留」の地名も残ります。

上野国一ノ宮・貫前神社は信濃から関東平野に入る要衝をにらむ位置にあり、経津主命を祭神と伝えるこの神社の創建に物部氏が関与したらしいのはよく知られています。経津主命は、前橋市の総社神社の祭神にもなっており、群馬県内ではお馴染みの神様といえるでしょう。
貫前神社のある富岡市の下高瀬上之原遺跡からは「物部名万呂」の刻書土器が、東へ行って吉井町の矢田遺跡からは「物部郷長」と刻まれた紡錘車が、さらに東の高崎市・矢中村東A遺跡からは「物部私印」が出土しています。高崎市といえば、金井沢碑も忘れてはいけません。「物部君午足」らの人名が書かれた碑です。また、吉井町には「石神」の地名があることも興味深いですし、矢田遺跡のある「矢田」も物部氏族矢田部連に関係するのでしょう。

ある時期に、物部氏が上毛野で一定の役割を果たしていたのは間違いないと思います。

上で紹介した原島先生の文にある「椿山」古墳、箕輪城からおよそ700メートルは離れているので城の下にあるというのはわかりにくい表現ですね。
一説には全長150mとも推測される墳丘は、すっかり荒れ果てています。
特に案内板等があるわけでもないので、「本当にここで間違いないのかしら…?」と不安になったのですが、すごく大きな窪みがあって、その周囲には写真のような大きな岩がゴロンゴロンと。

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これは自然地形ではなさそうですね。古墳の可能性があると思います。
このサイズの石ということは、主体部は横穴式石室だったのかもしれませんね。

原島先生の言い方だと、長野氏が古墳を築いた人々の末裔で、ずーっと椿山古墳のある地域にいたような印象を受けますが、長野氏はその名のとおり、群馬郡長野郷の豪族だったと見られています。
現在の高崎市西北部、旧長野村が遺称地でした。市内の行力町や楽間町、北新波町、南新波町、浜川町、菊池町などのあたりです。長野小学校や長野郷中学校に名前が残っています。
ちなみに長野郷も、椿山ではないですが保渡田古墳群のすぐ近くなので、論旨に影響はありません。

長野氏には在原業平の子孫とする伝説もあるようですが、これは事実ではないようです。君姓の物部氏の同族から興ったと見るほうが妥当です。


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上写真は箕輪城の本丸跡です。
小田原北条氏の滅亡後、井伊直政が入って整備し、高崎に移るまで居城としたそうなので、長野氏の時代そのままというわけにはいかないのでしょうね。
ここに拠った長野業政は、武田信玄の率いる甲斐勢の猛攻を数度に渡って退けたことで知られ、また領民に尽くした善政によって、いまも群馬県民の誇りなのだとか。息子の業盛の時代、永禄九年九月に落城したといいます。

それはともかく、興味ぶかいのは、城内の案内板にも書かれている「石上神社」です。
長野氏が、故地の長野郷から当地に移った際、城の丑寅(鬼門)に置いた守護神といわれています。つまり、元々長野郷内に祀られていたのが遷座したということなんでしょうね。

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が…神社はありませんでした…
あったのは、「石上寺」という寺院です。しかも無住の寺らしく、人の気配は無く、雑草も結構伸びていました。

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さらに、あちこちにかなりの数の石仏が置いてあって、独特な雰囲気なんですよね…

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全然知りませんでしたが、「石上寺の石造物群 」は市指定の文化財なんですね。独特とかいってすみません。

神社と寺の両方が戦前に存在したのは調べました。館林市立図書館で。
神社はいったい何処へ行ってしまったのでしょう。といっても合祀か廃絶かしかないのでしょうが…合祀先の神社までは調べることができませんでした。鬼門封じの神社なのに移してしまったら箕輪城は守れませんね。
祭神は、石上神宮と同じ布都御魂神だったようです。


【追記:2022年1月】城跡の東、ほど近い場所に諏訪神社があり(高崎市箕郷町東明屋512−2)、そこに合祀されているという情報をキャッチしました。Googleストリートビューで境内の様子を見ると、拝殿の左側に「石上神社」と彫られた碑が確認できます【追記ここまで】

高崎市三ツ寺町の石上寺も立ち寄ってきました。
そう、「三ツ寺」にあるお寺なのです。豪族居館遺跡として名高い「三ツ寺1遺跡」からは直線距離で700メートルほどでしょうか。

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県道25号線を堤下公園前あたりから西へ入っていくと、三ツ寺公園があります。公園に面して、上のような寺号標が立っていました。公園の駐車場に車を置けるので便利です。
で、これをさらに拡大すると

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まさに山号は「布留山」です。
もともとは市内浜川町にあって、移転してきたらしいです。浜川町は上述のとおり、旧長野郷にふくまれており、長野氏ゆかりの地です。
井伊氏が箕輪から高崎へ移ったことにともない、石上寺も箕輪を離れたともいわれます。現在地に落ち着くまで変遷があったんですね…。

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私が訪れたときには、ちょうど本堂に檀家の方々が大勢いらしていたようでした。静かな箕輪の石上寺とは対照的なように感じました。


初出:『天の神庫も樹梯のままに。』
「箕輪の石上寺」http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51696815.html
「石上寺と石上神社」http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51699917.html

南下古墳群


2009年3月15日に群馬へ行ったときの写真です。
南下古墳群は群馬県吉岡町の南下(みなみしも)にある古墳群です。五基が見学可能な石室開口古墳になります。
西側に榛名山を望める位置にあります。

南下A号墳

養豚舎と細い道を隔てただけの場所にあります。ちょっと臭ってきますね。
道とは反対側(南側)に石室が開口しています。

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玄室内はかなり広いです。
「截石切組積」と呼ばれる、加工した石材を巧みに組み合わせて積んだ石室になっていて、その美しさに見とれてしまいました。

ただの四角い石材だけではなく、L字型に加工されたりした石が、ピッチリと積まれているのがこの写真でわかるでしょうか。

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南下B号墳

A号墳からちょっと東に行ったところにあります。周りは小さな林や現代人の墓地もありました。
羨道はしゃがんだ状態でないと進めないのですが、玄室は高さ3mもあるそうで、広い印象です。
これ↓は右側の玄門の上部です。冠石を受けるために、切り込み加工がされています。

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側壁が腰くらいの高さまでは垂直に積まれてるんですが、その上は天井に近づくにつれ内側に転ぶ感じに狭くなっていってます。

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南下C号墳

小さな丘の上に築かれています。パッと見、丘全体が古墳に見えてしまいますね。

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ここはA号墳やB号墳と違って無袖の石室です。羨道や玄室の区切りがなく、ずーっと同じ幅で奥壁に突き当たります。

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お富士山古墳

お盆休みで暇になり、群馬県伊勢崎市へぶらり。
埴輪好きの聖地・相川考古館は素晴らしかったです。内部での撮影は禁じられてるので写真は無しです。絵葉書買いました。

その後、お富士山古墳へ。
伊勢崎市内では最も大きな前方後円墳で、墳丘全長は125mあります。JRの線路が通っているため、前方部の一部が削り取られてしまっていますが、あまりそれを感じさせない堂々とした古墳でした。
名称のとおり、墳丘の上に富士神社があります。

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下写真は後円部の南側裾から前方部側(西側)を見たところです。
なかなか奇麗にくびれ部あたりも残っています。

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そして、お富士山古墳といえばコレです。
長持形石棺!
立派な覆屋で保護されてます。しかし、窓はガラスじゃなくてアクリル板らしく、光が反射したりこまかい傷や汚れで写真撮りにくい。

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私、長持形石棺を間近に見るのは初めてです。
それもそのはず、全国でも四十数例しか確認されていないそうです。しかも大半が破片でしか残っておらず、こういった全体を見学できるのは非常に珍しいのだとか。
ほかには、奈良県御所市の宮山古墳(室の大墓)が有名です。

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大きさは、全長285cm、幅121cm、高さ115cm。重さは約6.8トンもあるそうです。デカい。
長持形石棺は、その多くは畿内の大王級古墳などに用いられ、相当有力な首長の墳墓にしか採用されなかったといわれます。そのため、「王の柩」なんて評する人もいますね。

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縄かけ突起もグッと突き出していて素晴らしいです。
小口石の上のほうに、方形の突出が二つあるんですけど、これは何に使うんでしょ?

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すぐ隣りにあるこの平石。
近くにあった消滅古墳の三郷91号墳の、横穴式石室に使われていたものらしいです

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初出:「相川考古館とお富士山古墳石棺」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51489021.html 2008年08月14日

皇子塚古墳と稲荷山古墳


出かけたのは1月3日のこと。すぐ近くに藤岡歴史館というのがあって、そこの駐車場を利用しようかと思ってたんですが、さすがに年末年始は休館日。駐車場は入り口に鎖がかかっていて使えませんでした。

皇子塚古墳

群馬県藤岡市三ツ木の皇子塚古墳です。

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皇子塚古墳は、直径31m、高さ6m、四段に築かれた円墳。群馬県立歴史博物館の『古墳めぐりハンドブック』を見ると、羨道・前室・玄室と複室構造の石室を持つらしいくて、見物するのを楽しみにしてました。
けど、どこを探しても石室が開口していない。古墳のまわりを3周しましたが、それらしい痕跡すらなく奇麗にノッペリしてました。
保存のために埋められてしまったんですね…
出土遺物から、6世紀の後半に築かれて、7世紀前半まで追葬が行われたと考えられているそうです。



平井地区1号墳

皇子塚古墳のすぐ隣りにある、平井地区1号古墳です。
直径24m、高さ3.5m、二段に築かれた円墳。幅広の基壇を持つそうですが、現状からは今ひとつ分かりませんでした。
北に開口する大きさ6.8mの石室を持つらしいんですが、こちらも残念ながら埋め戻されてしまった模様。銀象嵌円頭大刀や単凰環頭大刀が出土しています。
6世紀後半に造られたようです。

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皇子塚古墳と平井地区1号墳は、七輿山古墳の南にある台地上に位置しています。
眺めが実に素晴らしい。写真は皇子塚古墳の上から撮ったものです。赤城山まで一望できます。

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七輿山古墳


群馬県藤岡市上落合の七輿山古墳です。訪ねたのは2008年1月3日のことです。

ひとつ前のエントリで紹介した伊勢塚古墳から南に300mもないくらいの近さにあります。七輿山古墳の北にある駐車場に車を停めて、伊勢塚まで歩くのが見学コースとして良いと思います。
これは南東から見た写真です。右が後円部で左が前方部です。

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これは北東から見た様子。
全長146mの前方後円墳。かなり大きいです。ここはその大きさが実感できる眺めなのが素晴らしいです。
冬は木の葉も落ちて、全体を見ることができます。

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前方部の北西側のあたりです。三段に築成された古墳で、段差がいまもはっきり見て取れます(カメラを構える私の影も)。

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前方部の上から、後円部側を見たところです。
築造時期は、6世紀の前半ころと出土した物から見られています。規模からすると、保渡田三古墳の後の上毛野地域では、最も有力な首長が葬られたような感じですね。

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こちらは後円部の上から前方部側を見た様子。

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伊勢塚古墳


行ったのは2008年1月3日です。このあたりは、前々から訪ねてみたいと思っていたので念願がかないました。
伊勢塚古墳は、群馬県藤岡市上落合字岡の住宅地の中にあります。といっても、それほど民家がびっちり立ち並んでいるわけではなく、田んぼや畑もまだまだ多い地域ですね。

以前、上野の国立博物館で、群馬県立歴史博物館が出してる『古墳めぐりハンドブック』という群馬県下のおもだった古墳を紹介しているガイドブックを買っておいたのです。これが実際に探訪したい人向けのとてもいい本でして。
その表紙が伊勢塚古墳でした。模様積みな石積みが本当に美しくて、この本の中でいわれているとおり、「古墳の石室に入って、これ程感激することは滅多にない」というのを実感して参りました。
本の写真のようには奇麗に撮ることはできませんが、そのあたりの感動が少しでも伝わるといいのですが…

外観。現地の案内板によると、従来は円墳と考えられていましたが、不正八角形墳らしいとのこと。
直径は27.2メートルあるそうです。

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羨道は本来もっと長かったようですが、封土がかなり流失してしまった模様。

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まぐさ石というのですか、玄室寄りの羨道上部に架設されています。

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そして側壁。細長い石を小積みにして、その間の随所に大きめの石を絶妙のバランスで配するという、このセンスが素晴らしいです。

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フラッシュを焚かないで撮影するとこんな感じです。開口部からのわずかな光の中に、石たちが妖しく輝きます。

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胴張りプランの石室なのです。なめらかな曲線。

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天井石には巨石が使われています。

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奥壁。三つの大きな岩の上に、ひとかかえくらいある石が乗ってる感じです。
三回に分けて撮ったものを合成してるので不自然なところがあるのはおゆるしください。

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文句なしにオススメな古墳です。石室でうっとりしたい方向けです。
築造時期は、6世紀の終わりころと見られています。



初出:「伊勢塚古墳」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51300918.html  2008年01月20日

総社古墳群


7世紀前葉、上毛野にも前方後円墳の時代の終焉が訪れました。多様さを誇った埴輪たちも、この時期に姿を消します。
しかし、かつての巨大古墳のようなものは無くとも、古墳そのものは7世紀末ころまで盛んに築かれていました。群馬県内で一万基をゆうに超えるといわれる古墳は、その大半は群を成して分布する円墳です。比較的、広い階層の人々にも古墳をつくる風習がいきわたっていったともいえるかも。

そんな中、規模や構築技法の精巧さにおいて、とびぬけた存在が宝塔山古墳や蛇穴山古墳です。
総社古墳群に属するこれらは、当時の上毛野国の中心的地位にあった豪族のものと見られます。6世紀代には各地で大型前方後円墳が築かれていた上毛野ですが、7世紀に入ると、総社古墳群を除く地域では、それに続くに相応しい内容を持った古墳が一切見られなくなります。総社古墳群が造営された地域は、上野国府や国分寺が作られた上野国の中心地域でもあります。
この古墳群の被葬者が、「上毛野君(後に上毛野朝臣)」に有力視されるのは、そのためです。

王山古墳

前橋市大渡町。中央大橋の西、不二家レストランの向かい側に王山公園として保存されています。
全長75.6メートル、後円部径50メートルの前方後円墳。6世紀初頭ころの築造といわれます。
東南東に横穴式石室が開口していたといいますが、現在は埋まっています。
後円部が川原石と砂礫のみで(普通の土は使わず!)作られているのが特徴。一度円墳として完成したものを、後から前方部を付け足して前方後円墳にしたと見られています。

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遠見山古墳

前橋市総社町総社。城川公民館の隣にあります。
全長約70メートル程の前方後円墳。5世紀末ころの築造かといわれます。
名称は、総社城の築城の際、遠見の櫓がここに築かれたためといいます。

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赤城神社


赤城神社(1)

前橋市二之宮町の赤城神社。地名のとおり、上野国の二宮として有名です。
祭神は赤城神、大己貴神、豊城入彦命。
近くには古道「あずま道」が通っていたことが発掘により確認され、鎌倉時代初期に作られた「女掘」と呼ばれる掘割の痕跡も、この神社の北に残ります。
大室古墳群からは南西に3キロメートルにあり、このあたりは古代から上野の重要地域だったようです。
境内の宝塔は南北朝時代の、塔心礎は鎌倉時代のものと見られています。

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