大田別ノート

物部厨どもが夢、それとも幻。

古代史つれづれ


聖徳太子と天智天皇の年齢栞

4cm×12cm程度の栞(しおり)印刷用ファイル(PDF)を作りました。何番煎じのアイディアだよ、と思われるでしょうか。まあ、自分で使おうと作ったものを公開しちゃおうということです。

聖徳太子と天智天皇が、それぞれ西暦何年・某大王の治世何年のとき、何歳だったかを一覧にした表です。

文字はちいさくなるので老眼の人には向きませんが、それでもいいという方は丈夫そうな紙を用意してプリントしてみてください。
印刷上手な方には、一枚の紙に片面聖徳太子、もう片面を天智天皇にするのがオススメです。
別に4cm×12cmにはこだわらんよ、という場合は、印刷設定のほうで拡大して、もう少し大きな栞にしてしまうのもいいですね。

この時代を舞台にした小説や、一般向け新書など、読書の際に役立てばうれしいです。






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丹後風土記残欠

2003年8月から2007年3月まで本体サイト「天璽瑞宝」の資料ページに置いておいたものなんですが、こっちに復活させておこうと思います。
当時のものをそのままコピペしたので、特に再チェックとか手直しはしてません。不備があってもそのままですみません。

これも偽書(=奈良時代の風土記ではない)、という評価はひっくり返らないと思うのですが、書かれていることがすべて机上の創作だとも思えないんですよね。丹後の在地伝説などを反映している部分が、あるように見えます。
過大評価すると、神社の社伝で古代史復元とかの、よくある変な方向に行っちゃいますかね。そのあたりも怖くて、以前は引っ込めたんですけど、おもしろいものはおもしろいですから…

偽作の根拠として代表的なものをあげると、「高橋郷」「田造郷」の存在があります。
それぞれ、もっともらしい郷名(地名)の由来が書かれているのですが、実はこの地名、『和名抄』の特定の写本における誤記によるものなのです。偽作者は、誤記であることに気づかず、由来譚を創作してしまったのでしょう。
正しくは「椋橋郷」「田辺郷」であることは、善本である高山寺本『和名抄』や他の地名史料から明らかです。

また、「凡海郷」についての記述として、大宝元年三月の地震によって大規模な地盤沈下があり、広い範囲が海中に没したが、高い山の山頂のみが島として残ったというものがあります。
しかし、現代の地震学・地質学からは、このときの地震は、そのような地形の大変化をもたらすような規模ではなかったことが指摘されています。
地震自体は『続紀』にも載っていますから、『続紀』を見て付会したのでしょうね。『続紀』の記述は丹波で三日間の地震があった、ということだけです。郷ごと沈むような超巨大地震なら藤原京でも揺れを感じたはずですけれど、そうではなかったようです。
大宝元年から風土記編纂までの短期間に、この物語が創りだされるとは考え難く、やはり後世の偽作と見なければならないわけです。

まあ、こんなネタもあるんだね程度に。
天火明命の周辺に関しては、記・紀・旧事本紀だけでなく、籠神社社伝や但馬故事記との比較もいいかもしれませんね。

底本は永濱宇平編『丹後史料叢書』です。いつの間にか近代デジタルライブラリーでも公開されていました。



虫食い多すぎ?私もそう思います。

【追記:2022年】近代デジタルライブラリーは2016年5月に国立国会図書館デジタルコレクションと統合されました。
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『上宮聖徳法王帝説』現代語訳


聖徳太子に関する最古のまとまった伝記資料と評価されているのが、『上宮聖徳法王帝説』です。
平安時代前期の成立と見られています。

少し気になっていたので、口語訳をこころみました。
「古代史獺祭」さんのテキストと、沖森卓也氏・佐藤信氏・矢嶋泉氏『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』の校訂をもとにしています。

いまひとつ明快な文章にならず、申し訳ないです。
それとは別に、用語がかなり難しくて、文章と関係無いところで意味がわからなくなりそうですね。人名や古代文献特有の用語、仏教用語については、上記の本や岩波文庫の『上宮聖徳法王帝説』の注をご覧になるといいかもしれません。これらの本は原文と訓読文、注釈だけで、現代語訳は載っていません。

上宮聖徳法王帝説―注釈と研究
信, 佐藤
吉川弘文館
2005-02-01


■は現存の写本で欠けているため訳せない文字。
節ごとの見出しももちろん原文にはありません。わかりやすいだろうということで、つけておきました。
[ ]は分注です。
( )は原文にはない注です。


1.聖徳太子のきょうだいたち


上宮聖徳法王帝説。

伊波礼池辺双槻宮(いわれいけのべのなみつきのみや)で天下を治めらられた橘豊日(たちばなのとよひ:用明)天皇が、庶妹の穴太部間人王(あなほべのはしひとのひめみこ)を娶って大后とし、お生みになった子は、厩戸豊聡耳聖徳法王(うまやどのとよとみみのしょうとくほうおう)、つぎに久米王(くめのみこ)、つぎに殖栗王(えくりのみこ)、つぎに茨田王(まんだのみこ)である。
また、天皇が蘇我伊奈米宿祢大臣(そがのいなめのすくねおおみ)の娘で、名は伊志支那郎女(いしきなのいらつめ)を娶ってお生みになった子は、多米王(ためのみこ)である。
また、天皇が葛木当麻倉首(かずらきのたぎまのくらのおびと)、名は比里古(ひりこ)の娘である伊比古郎女(いひこのいらつめ)を娶ってお生みになった子は、乎麻呂古王(おまろこのみこ)、つぎに須加弖古女王(すかてこのひめみこ)である。[この王女は、伊勢の神前に斎き奉って、三代の天皇の御世に至った。]
合わせて、聖王の兄弟姉妹は七人の皇子女がいらっしゃる。

kyoudai

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荒陵寺御手印縁起(四天王寺御手印縁起)


そのうち買おうとずるずる放置していた谷川健一氏の『四天王寺の鷹』を読みました。四天王寺へ行きたくなる本ですね。

それはともかく、続きに「荒陵寺御手印縁起(四天王寺御手印縁起)」のテキスト全文をメモ。
聖徳太子の自筆を称して寛弘年間(1004~1012年)ころに成立した偽書。
物部守屋関連の論文を読むと、かなりの確率でこれの守屋から没収した所領の話が出てきますよね。
実際に四天王寺が保有していた田園等の由来を説明するために作られたものなので、具体的な地名までは偽作ではないと見られます。そして、大阪平野における物部氏の勢力圏と重複する地域が少なくない…という点で、四天王寺が所有する寺領の中に、守屋の遺産が含まれているのは事実なんだろうともいわれています。続きを読む

冠位変遷

しょっちゅう参照するので資料引っ張り出してくるより便利かと思って表を作ってみました。
物部宇麻呂(宇麻乃)の大華上(大花上)冠は、令制での正四位に相当して…のように使ってます。

大宝元年 天武十四年 天智三年 大化五年 大化三年 推古十一年

正一位
従一位

正二位
従二位

正三位
従三位

正大壱
正広壱
正大弐
正広弐
正大参
正広参
正大肆
正広肆
大織
小織

大縫
小縫

大紫
小紫
大織
小織

大繡
小繡

大紫
小紫
大織
小織

大繡
小繡

大紫
小紫
 
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
直大壱
直広壱
直大弐
直広弐
大錦上
大錦中
大錦下
大花上
大花下
大錦 大徳
小徳
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
直大参
直広参
直大肆
直広肆
小錦上
小錦中
小錦下
小花上
小花下
小錦 大仁
小仁
正六位上
正六位下


従六位上
従六位下
勤大壱
勤広壱
勤大弐
勤広弐
勤大参
勤広参
勤大肆
勤広肆
大山上
大山中
大山下
大山上
大山下
大青 大礼
小礼
正七位上
正七位下

従七位上
従七位下
務大壱
務広壱
務大弐
務広弐
務大参
務広参
務大肆
務広肆
小山上
小山中
小山下
小山上
小山下
小青 大信
小信
正八位上
正八位下

従八位上
従八位下
追大壱
追広壱
追大弐
追広弐
追大参
追広参
追大肆
追広肆
大乙上
大乙中
大乙下
大乙上
大乙下
大黒 大義
小義
大初位上
小初位下

少初位上
少初位下
進大壱
進広壱
進大弐
進広弐
進大参
進広参
進大肆
進広肆
小乙上
小乙中
小乙下
小乙上
小乙下
小黒 大智
小智
    大建
小建
立身 建武   

初出:「冠位変遷」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51686842.html 2009年07月02日

田邑伝記

「田邑伝記(田邑麻呂伝記)」は、十世紀~十一世紀に成立したと見られている坂上田村麻呂の伝記です。

新野直吉氏の『田村麻呂と阿弖流為 古代国家と東北』や鈴木拓也氏の『戦争の日本史 蝦夷と東北戦争』を最近読みました。両書とも、田村麻呂が二十三歳で近衛将監になったことを事実ととらえているような口ぶりで書かれていたので、その出典が気になり、早速「群書類従」を図書館で開いてみたわけです。和気清麻呂伝の次のページです。

宝亀十一年で「将監」になったことが確かに書かれてます。これだけだとどうして「近衛」なのかがわかりませんけど、続日本紀には延暦六年三月に近衛将監のまま内匠助兼任の命を受けたことが見えるので、この間ずっと近衛将監だったと見られるということなのかしら。青年将校ですね。
田邑伝記は田村麻呂の伝記としては比較的早い成立であることから、史料価値も高く見積もられているんでしょうか。「二十三歳で将監」も特に矛盾が無く経歴として妥当と認められているんでしょうね。

ということは、やはり二十一歳で蔭位が適用され、父の苅田麻呂が宝亀九年には四位だったから、田村麻呂の場合は七位に叙されて官人世界に足を踏み入れたことになるはず。
延暦四年十一月に従五位下ということは、八年間に七位から五位まで昇進ですか…かなり順調です。

ところで、日本後紀の弘仁二年五月にある田村麻呂の薨伝に、彼の見た目の特徴として「赤面黄鬚」とあります。講談社学術文庫のだと森田先生は「黄ばんだ鬚」と訳しておられて、黒鬚のなかにいくらか黄色味がかっているようなニュアンスですが、原文を見る限り、全部黄色という解釈も可能なような。
「田邑伝記」よると、「目は蒼鷹の眸(ひとみ)をうつし、鬢(びん)は黄金の縷を繋ぎ」、とされています。
田村麻呂の髪やヒゲが金色や黄色なのは広く知られていたということでしょうか。彼だけなのでしょうか。苅田麻呂や又子、春子はどうなんだろう?

私、坂上田村麻呂の名を初めて知ったのが、小学生のとき父が買ってくれた『少年少女 日本の歴史』というマンガだったんです。小学館のほうの学習まんがです。
それに田村麻呂が庶民の子供と遊んであげるエピソードが載っていたように記憶しているんですが、その出典も田邑伝記だったんですね。「怒りて眼を廻らせば、猛獣もたちまちに斃れ、咲(わら)いて眉を舒(ゆる)めれば、稚子(おさなご)もすみやかに懐く」の部分です。眼力で猛獣を倒してしまうと表現されるような恐ろしげなところを持つ反面、その笑顔には小さな子供もアッという間に懐いてしまう魅力の持ち主。
荻原規子先生の小説『薄紅天女』でも、あとがきにこの部分を紹介して田村麻呂の人物について触れられてました。田村麻呂関連では有名な史料だったんですね。知りませんでした。

これに続いて「丹款面に顕われ、桃花春ならずして常に紅」ですから、普段の田村麻呂は、いるだけでその場がなごむような温和な人だったのかも。薨伝のほうの「寛容士を待し、能く死力を得つ」のところがいいなと思います。田村麻呂の人物に魅了された部下の将士たちは、彼のために死力をつくして働いたということですよね。
山城国宇治郡栗栖村の俗称馬背坂に、平安京を守るように東を向いて葬られた…という記述は、近年、西野山古墓が再検討されたときに注目をあびた「清水寺縁起」のほうにも同じようなことが書かれているとか。向こうは「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村」ですか。
「甲冑・兵仗・剣鉾・弓箭・糒塩」が副葬されたとありますが、発掘で出てきたのはこのうち剣鉾と弓箭なんですかね。干し飯や塩みたいに副葬しても残らないものは何ともいえませんか。

そんな感じに色々見どころ満載な割に、実は短い文なので、以下に全文を。

大納言坂上大宿禰田邑麻呂者。出自前漢高祖皇帝。廿八代至後漢光武皇帝。十九代孫孝霊皇帝。十三代阿智王。率一縣同姓百人。出漢朝入本朝。応神天皇二十六年也。有勅。給大和国檜前地居之。一名英智王。阿智王十一代孫贈大納言勲二等苅田丸之二男也。宝亀十一年将監。延暦十四年征夷将軍 正四位下近衛中将越後守。同年二月兼木工頭。同二十年十一月叙従三位。同二十二年二月任刑部卿。[中将如元。]同二十三年正月補陸奥出羽按察使。同二十四年任参議。弘仁元年叙正三位。任中納言。同年九月任大納言。[先此近衛大将。今如元。]同二年五月二十三日薨。于時年五十四。即日賜絁六十九疋。[常例五十九疋。更加一十疋。]調布一百一段。[常例。]商布四百九十段。[常例三百九十段。更加一百段。]米七十六斛。[白米三十八石。黒米三十八石。常例五十一石。更加二十五石。]役夫二百人。[左右各五十人。山城国愛宕郡百人。]栢原天皇第八皇子葛井親王者。大納言女従四位下春子女御之所生也。仍殊加賜之。天皇不視事一日。同五月二十七日大舎人頭従四位下藤原朝臣縵麻呂。治部少輔従五位下秋篠朝臣全継。就大納言第読贈従二位宣命。同二十七日葬於山城国宇治郡栗栖村。[今俗呼為馬背坂。]于時有勅。調備甲冑兵仗剣鉾弓箭糒塩令合葬。向城東立窆。即勅監臨行事。其後若可有国家非常事。則件塚墓宛如打皷或如雷電。爾来蒙将軍号而向凶徒時先詣此墓誓祈。大将軍身長五尺八寸。胸厚一尺二寸。向以視之如堰。背以視之加俯。目寫蒼鷹之眸。鬢繋黄金之縷。重則二百一斤。軽則六十四斤。動静合機。軽重任意。怒而廻眼。猛獣忽斃。咲而舒眉。稚子早懐。丹款顕面。桃花不春而常紅。勁節持性。松色送冬而独翠。運策於帷帳之中。決勝於千里之外。武芸称代。勇身踰人。辺塞閃武。華夏学文。張将軍之武略。当案轡於前駆。蕭相国之奇謀。宜執鞭於後乗。

初出:「田邑伝記」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51667712.html 2009年05月24日
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