大田別ノート

物部厨どもが夢、それとも幻。

2010/09


三津屋古墳

奈良県明日香村の牽牛子塚古墳、昨日の新聞でも一面に載ってました。すごいなぁ…
現地見学会の様子は、落王さんをはじめ、既に画像つきでUPされてるところがあって眼福ですね。裾部の石敷きが現代のコンクリートタイルを思わせ、築造当初はさぞ奇麗だったんだろうと思います。


ところで、新聞報道では
「天皇クラスの墓に限定される八角形墳だったことが分かり、被葬者は斉明天皇であることがほぼ確実になった」
とか
「7世紀、天皇陵にのみ許されたとされる八角形墳とわかった」
といったことがいわれています。本当でしょうか。
八角形なら、それを根拠になんでもかんでも天皇陵にしてしまってもいいのでしょうか。

三津屋古墳は群馬県北群馬郡吉岡町の大久保にある古墳です。
7世紀後半に築かれたと見られる、八角形墳です。
去年(2009年)の三月に、花粉と闘いながら見てきました。

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住宅地を抜けると、復元された異様な姿が忽然と現われ、ギョッとしたのを思い出します。
墳丘対角間は23m、一辺約9mほどの規模なのだそうです。
牽牛子塚古墳の墳丘の規模は、対辺長が約22mだそうですから、大きさではあまり変りませんね。

二段築成で周堀も持っていたといいます。そこは復元できなかったようです。
前庭には川原石が敷かれていたみたいです。

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群馬県下で八角形墳といえば、藤岡市の伊勢塚古墳もそうだといわれています。


他には山梨県笛吹市の経塚古墳や、鳥取県鳥取市の梶山古墳も…
この三つは6世紀後半~7世紀初頭くらいに築かれたものなので、牽牛子塚古墳や野口王墓古墳、束明神古墳とは時期が違うから同列に論じることはできないのかもしれません。別の意識によって築かれた可能性があります。

でも、三津屋古墳の場合はどうすればいいのでしょう。時期は7世紀後半と同じなわけで、畿内の八角形墳と似たような価値観・意識で築かれたことを否定するのは困難です。
解決方法はふたつあると思います。

(1)三津屋古墳には天皇が葬られていた
(2)八角形墳が天皇陵に限られるという見方が間違っている

(1)は、日本書紀や延喜式の記述に事実性を認めずに、かなり思い切った視点から解釈することになります。6世紀以降の天皇陵には、史料の記述と齟齬しない古墳が多く、あえてそういったトンデモ史観を持つ必要はないようです。
とすれば、(2)を考えなければなりません。

かつて、上円下方墳を、皇族の墳墓にあてる見方が有力でした。
しかし、清水柳北1号墳(静岡県)や武蔵府中熊野神社古墳・天文台構内古墳(東京都)、野地久保古墳(福島県)の存在は、これに疑問を投げかけました。
八角形墳にも、似たようなにおいを感じます。
調査されておらず墳形が不明な古墳や、擦り減って円墳だと思われている古墳のなかに、八角形墳も含まれているかもしれません。今後、全国的な調査の進展によって、明らかになる日が来るでしょうか。

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では内部へお邪魔します。
扉の鍵はかかっておらず、「開放時間は、午前8時から午後5時までです」「扉は必ず閉めてください」と書かれた札がかかっていました。

なかは石室…というより、見学室でした。
石材はかなり失われています。
墳丘が版築されてるのがよくわかるようになっています。10センチ~20センチ間隔くらいの横縞ですね。

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後代の人が、石室材を割って持っていこうとした跡も残っていて生々しいです。

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【追記:2021年12月】その後、この年の年末、大田皇女の墓にあてうる越塚御門古墳が発見され、牽牛子塚古墳は斉明天皇陵の条件を偶然とは思えないレベルで揃えることになり、天皇陵だったことが確定的になりました。新聞等でも、その段階までは「天皇陵として確実」のような報道は控えてほしかったです。

初出:「三津屋古墳」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51859446.html 2010年09月12日

ヤマトタケルの墓 1/2


武備塚

伊勢へ出かけたのは、2006年のゴールデンウィークのこと。
日本武尊ほどの有名人になると、墓地の比定地はいくつもあるようです。
三重県鈴鹿市長澤町の長瀬神社境内にある、「武備塚」もそのひとつです。

まずは神社の写真。

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長瀬神社は、『延喜式』神名帳の伊勢国鈴鹿郡に見える式内社です。
現在の祭神は、もちろん倭建命。
東大阪市に同じ名前の神社がありますが、無関係のようです。

社殿を右に見ながら奥へ進むと、このような「日本武尊御陵道」があります。

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そしてこれが武備塚。
塚…といっても、それほど高い盛り土が残っているわけではありません。うずたかい感じでした。

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塚の上に立ってるのは碑です。
『古事記』で倭建が亡くなるときに詠んだとされる歌「愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も」が彫ってあります。
明和七(1771)年のものらしいです。

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直径約25mの古墳時代後期の円墳かともいわれますが、実際のところはどうなんでしょうね。
江戸時代には、当地を治めた亀山藩がこれを日本武尊の墳墓としていたため、最も有力な候補でした。

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