大田別ノート

物部厨どもが夢、それとも幻。

2009/08


伊夫岐神社と伊吹山

今年(2009年)のゴールデンウィークの旅行で撮ってきた写真です。
伊夫岐神社は、滋賀県米原市伊吹に鎮座します。

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『文徳実録』嘉祥三年十月八日条に「近江国伊富岐神」として従五位下の神階に叙せられたことが見え、その後も『三代実録』貞観元年正月二十七日に従五位上、元慶元年十二月二十五日には従三位に昇ったことが見えます。
貞観九年四月二日には、神祇大祐の大中臣常道が遣わされ、近江国伊福伎神社に弓箭鈴鏡を奉納したと『三代実録』にはあります。
美濃国不破郡の式内社、伊富岐神社と並んで、伊吹山の神を祀る有力な神社だったようです。

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伊吹山は新幹線の車窓からも見えるそうでおなじみの山らしいですが、北海道育ちの私が間近に見上げるのははじめてでした。
なんだかすごいですね。すごいというか酷い。

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上写真、右側の山頂近くまで、不自然に平らになってますでしょう? 緑になっているのは、削られてから時間が経っているからのようです。

簡単に図にしてみますと、つまり、こういう自然の山がまずあったところ…

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人間の手で削りとられて、山の元の形がわからなくなってしまうほど、姿を変えてしまったということです。

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決して小さな山ではないのに、こんなにゴッソリと削りとられてしまうことなんてあるんですね。住友大阪セメントという会社が持っている伊吹鉱山というのだそうです。ふもとのほうまで、大きなパイプが引かれて、採掘した石灰岩をじゃんじゃん送れるようになっていました。
山自体がそのうちなくなってしまうんじゃないかと心配になってしまうくらいですが大丈夫なのかしら。

伊吹山の神といえば、景行紀によれば、大蛇に姿を変え、ヤマトタケルに祟りをなし、ついには死に追いやったとされる神です。古事記にも、白い猪の姿でヤマトタケルの前に現われ、同様に祟りをなしたとされます。
恐ろしい神威をもった神です。この神に対して、強い畏敬の念を古代の人たちが持っていたことをうかがわせます。

なお、セメント会社は神社に多額の寄付もしているような感じでした。


初出:「伊夫岐神社と伊吹山」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51707522.html 2009年08月19日

足羽の神

足羽神社は、福井県福井市足羽上町に鎮座します。『延喜式』神名帳の越前国足羽郡に「足羽神社」が見えます。

参拝したのは、今年(2009年)のゴールデンウィーク。足羽山公園の中の道へ車で入って、どちらかというと継体天皇像に近いほうへ路駐しました。
神社に向かって行くと地元の小学生らしい子らがぞろぞろ継体像の奥にある広場のほうへ入っていくのに遭遇。「おはようございまーす!」と元気に挨拶されちゃいました。変質者だと思われたくない&通報されたくなくて、私のほうから少年少女に声をかけることはしていないので、向こうから挨拶をもらえてよかったです。

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本殿中央に主祭神の継体天皇、左の相殿に生井神・福井神・綱長井神が、右の相殿に阿須波神・波比岐神が祀られているそうです。
継体天皇以外は、いわゆる宮中式内社のうち「坐摩巫祭神」の五座です。
社家の馬来田氏は、継体天皇の皇女の馬来田皇女の末裔を称するのだとか。

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社殿の前のシダレザクラは市指定の天然記念物なのだそうです。ほかには参道の階段の途中のモミジも立派でした。

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式内足羽神社はその祭神を「一座」とするのですが、延喜式が編纂された当時には、足羽神が継体天皇のことだとする説は存在していなかったようです。
延暦十年四月十五日に従五位下の神階に叙せられて(続紀)、仁寿元年正月には従四位下に昇叙し(文徳実録)、天慶三年には従三位に昇って(日本紀略)います。
位階は臣下が賜るものであり、皇位についた人物に与えられることは基本的にありません。継体天皇は日本書紀によって朝廷が保証した天皇ですから、たとえ古い時代の人物でも、簒奪説がいうような元は皇族でない地方豪族であっても、平安時代の天皇たちから臣下あつかいされるようなことはないはずです。
そういうわけで、足羽神社の祭神はもともと別の神で、継体天皇は後世にあてられたものとする見方が有力なようです。

当地で祀られる神としてふさわしいものを考えるとき、神社の鎮座地・足羽山に広がる足羽山古墳群が気になってきます。継体天皇像が立っている丘も山頂古墳とよばれる古墳です。公園をつくる際に削られたりしたそうで、旧態をそのまま残してはいないといわれるのですが、大型の円墳と見られています。

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旧足羽郡内では、最も大規模な古墳群です。

この古墳群を築いた人たちは、やはりこの地域を支配していた豪族なのでしょう。
続日本紀には宝亀二年八月と延暦二年二月に「足羽臣眞橋」、宝亀五年七月と宝亀八年正月に「足羽臣黒葛」が見えます。黒葛のほうは女孺とありますから女性ですね。
天平三年の越前国正税帳には「足羽郡司少領阿須波臣眞虫」、天平神護二年の足羽郡司解には「足羽郡少領外従八位下阿須波臣束麻呂」などが見え、この「アスワ」氏というのは、足羽郡では郡領を輩出した有力豪族だったと見られます。
足羽山古墳群は、彼らの先祖たちの墳墓である可能性を考えたいです。そして当然、彼らが当地で祀っていた神も存在したはずです。

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「継体天皇御世系碑」という碑も境内にはありました。弘化三年に建てられたものだそうで、「品陀天皇能五継乃御孫…」とか継体天皇の系譜について書かれてました。

足羽氏との関係で注目されるのが、足羽神社の祭神のひとつに数えられている「阿須波神」です。
古事記によれば大年神の子とされています。つまり、国津神に位置づけられているんですね。
「坐摩巫祭神」については、どうしてこれらの神が宮中で祀られなくてはならないのか、なかなかよくわからないのですが、阿須波神は農耕神として祀られていると考えられているんでしょうか?

仮に阿須波神が、もともとは足羽氏の祀る神だったとしたら、宮中で祀られるようになる契機はやはり継体天皇の即位しか考えられません。
となると、足羽氏も継体擁立で一定の役割を果たしたからということになりますが、この氏に限らず、北陸に出自を持つ氏が継体即位の後で中央政界の有力者となった明確な例はないようで、どうにもはっきりしません。私は大伴金村ら畿内の豪族によって継体が招かれたという書紀の記述はある程度事実を反映していて、彼らによって北陸や近江、美濃尾張の継体が基盤にしていた地域の豪族の中央進出は阻害されていたのでは…既に畿内と畿外の意識は成立していて、中央の中枢には入り込みにくかったのでは…なんて思ってます。
足羽氏が力をふりかざして捻じ込んできたのではなく、むしろ継体天皇自身によって信仰が接収されたなんてことはないでしょうかね。

もうひとつ、坐摩巫祭神五座のうちで面白いのが「福井神」です。
「さくいのかみ」と読むのが普通ですが、県名にもなっている地名「福井」と関係があるのかないのか。
市辺押磐皇子の弟、御馬皇子は殺される間際に「三輪の磐井」という井戸に呪いをかけたといいますが、これは首長のおこなう水の祭祀に用いる聖井への呪詛なんでしょう。「福井」も継体天皇が越前で行っていた祭祀に関係するもので、そのまま継体とともに宮中に入っていったのかもしれません。

地方で祀られていた神が、畿内でも中枢の宮中で祀られるようになる…なんて想像をするのは楽しいです。

ところで、継体天皇を足羽神社の主祭神にあてた影響は大きかったようで、合祀されている於神社は欽明天皇、山方神社は宣化天皇、土輪神社は耳皇子というように、息子さんたちも式内社の祭神にあてられています。『特撰神名牒』や『神社覈録』のような明治期の書では、別の神が比定されていたり不明となっていたりするので、これらも「足羽神社の社伝を信用するなら」ということになるんでしょうか。


初出:「足羽の神」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51705777.html 2009年08月15日

穂積神社

穂積神社は群馬県高崎市吉井町本郷に鎮座します。私が参拝したときには、まだ多野郡吉井町でした。上信電鉄の西吉井駅からは北西に300mほどの場所です。
上野国内神名帳の多胡郡(多野郡は多胡郡と緑野郡などが合併してできた)に見える「従五位上 穂積明神」にあてられる神社です。

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ちなみに、同郡には「従三位 物部明神」もあります。「従二位 辛科明神」(たぶん辛科神社の神様)に次ぐ神階の高さの神なんですが、それっぽい神様を祀る神社を見つけることができませんでした。
式内社ほど、比定に関心が高くないようで、そのあたりの情報もなかなかつかめませんね。
「祭神経津主命」という神社、境内社も含めると結構ありそうですが、一ノ宮の貫前神社の影響が強い地域なので、探しにくいのです。

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境内の案内板(平成八年に氏子の方々が建てたらしい)によると、鎮座地には元々「火蛇神社」があり、明治四十二年に近隣の「科社神社」、「諏訪神社」、「諏訪神社」が合社され、新たに「穂積神社」の号を称するようになったようです。
「カジャ(火蛇・科社)」という神が国内神名帳の「穂積明神」と同一神とする比定がされたのでしょうか。あまり聞かない神様ですね。どういう性格を持っているのでしょう。

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「穂積」の号だけだと、稲穂を積みあげる豊作の神という解釈も成り立ちますけど、この地域の物部氏との関係の深さを考えるとき、物部氏族・穂積臣との関係を想定したほうが妥当のような気がします。

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物部氏族の穂積氏がらみということで、本来なら「天璽瑞宝」でUPしたかったのですが、上述のとおり情報が少なく、まとめることができませんでした。ネタ的には弱いのでこっちに上げておくことにします。
周辺は基本は農地で静かないい雰囲気でした。しかし住宅地も近くに広がってきているようで、十年先、二十年先もこの景観かどうかはわからないですね。


初出:「穂積神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51704600.html 2009年08月12日

箕輪と三ツ寺の石上寺

群馬の話です。

原島礼二氏は、1979年発行の教育社歴史新書『古代の王者と国造』において、つぎのようにいっています。

「椿山の上には中世の城跡がある。箕輪城といい、このあたりを支配していた長野氏の居城である。この長野氏の菩提寺は布瑠山石上寺とよばれ、あの大連守屋をだした物部氏の子孫、石上氏とおなじ名をもつ。そのうえ布瑠は、奈良県天理市石上の古い地名でもあった。また長野氏はもと石上氏を名のっていた。
(中略)
新興勢力が台頭した背景には、倭王権の大連をつとめた、物部氏の力があったように思われるのである。
(中略)
この物部氏が、上毛野の旧勢力を打倒するために前記の新興勢力を支援し、その首長を物部の一管理者に組織したので、物部君という豪族がこの地域で、奈良時代になってもなお力をもっていたのであろう」

古代の王者と国造 (教育社歴史新書 日本史 16)
原島 礼二
ニュートンプレス
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五世紀後半ころ、雄略天皇は在地系豪族の勢力を削ぐことに熱心だったようで、奈良盆地西部の馬見古墳群や北部の佐紀盾列古墳群、吉備の古墳などをはじめとして、それまで大型の古墳を築いていた地域でも小型化・衰退するという現象が全国的に起こっていきます。
しかし、逆にそれまでまったく有力な古墳を築いていなかった地域に、大型古墳が現われるようなことも見られます。これは、雄略天皇(王権)と強いつながりを持った集団の奥津城と考えられます。武蔵の埼玉古墳群が代表的な例です。

上毛野も例外ではなく、東日本最大の規模を誇る群馬県太田市の天神山古墳を築いた勢力はこの時期没落してしまったようで、代わって台頭するのが高崎市の旧群馬町域にある保渡田古墳群の勢力のようです。

保渡田古墳群の被葬者として、現在最も有力視されているのが、「東国六腹の朝臣」のひとつとして知られる車持氏で、『姓氏録』左京皇別に車持公氏が「雄略天皇の御世に、乗輿を供進れり。よりて姓を車持公と賜ひき。」という伝承を持ったり、「クルマもち」のウジ名が地名「グンマ」と結びつけられて考えられるなど、高い蓋然性を持っていると思います。

これには異論もあります。
原島先生の説もそうで、中央の物部連の支援を受けながら当地の物部を管理した物部君を保渡田古墳群の被葬者にあてようというものです。
この古墳群のうち二子山古墳のある井出には、「上布留」「下布留」の地名も残ります。

上野国一ノ宮・貫前神社は信濃から関東平野に入る要衝をにらむ位置にあり、経津主命を祭神と伝えるこの神社の創建に物部氏が関与したらしいのはよく知られています。経津主命は、前橋市の総社神社の祭神にもなっており、群馬県内ではお馴染みの神様といえるでしょう。
貫前神社のある富岡市の下高瀬上之原遺跡からは「物部名万呂」の刻書土器が、東へ行って吉井町の矢田遺跡からは「物部郷長」と刻まれた紡錘車が、さらに東の高崎市・矢中村東A遺跡からは「物部私印」が出土しています。高崎市といえば、金井沢碑も忘れてはいけません。「物部君午足」らの人名が書かれた碑です。また、吉井町には「石神」の地名があることも興味深いですし、矢田遺跡のある「矢田」も物部氏族矢田部連に関係するのでしょう。

ある時期に、物部氏が上毛野で一定の役割を果たしていたのは間違いないと思います。

上で紹介した原島先生の文にある「椿山」古墳、箕輪城からおよそ700メートルは離れているので城の下にあるというのはわかりにくい表現ですね。
一説には全長150mとも推測される墳丘は、すっかり荒れ果てています。
特に案内板等があるわけでもないので、「本当にここで間違いないのかしら…?」と不安になったのですが、すごく大きな窪みがあって、その周囲には写真のような大きな岩がゴロンゴロンと。

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これは自然地形ではなさそうですね。古墳の可能性があると思います。
このサイズの石ということは、主体部は横穴式石室だったのかもしれませんね。

原島先生の言い方だと、長野氏が古墳を築いた人々の末裔で、ずーっと椿山古墳のある地域にいたような印象を受けますが、長野氏はその名のとおり、群馬郡長野郷の豪族だったと見られています。
現在の高崎市西北部、旧長野村が遺称地でした。市内の行力町や楽間町、北新波町、南新波町、浜川町、菊池町などのあたりです。長野小学校や長野郷中学校に名前が残っています。
ちなみに長野郷も、椿山ではないですが保渡田古墳群のすぐ近くなので、論旨に影響はありません。

長野氏には在原業平の子孫とする伝説もあるようですが、これは事実ではないようです。君姓の物部氏の同族から興ったと見るほうが妥当です。


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上写真は箕輪城の本丸跡です。
小田原北条氏の滅亡後、井伊直政が入って整備し、高崎に移るまで居城としたそうなので、長野氏の時代そのままというわけにはいかないのでしょうね。
ここに拠った長野業政は、武田信玄の率いる甲斐勢の猛攻を数度に渡って退けたことで知られ、また領民に尽くした善政によって、いまも群馬県民の誇りなのだとか。息子の業盛の時代、永禄九年九月に落城したといいます。

それはともかく、興味ぶかいのは、城内の案内板にも書かれている「石上神社」です。
長野氏が、故地の長野郷から当地に移った際、城の丑寅(鬼門)に置いた守護神といわれています。つまり、元々長野郷内に祀られていたのが遷座したということなんでしょうね。

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が…神社はありませんでした…
あったのは、「石上寺」という寺院です。しかも無住の寺らしく、人の気配は無く、雑草も結構伸びていました。

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さらに、あちこちにかなりの数の石仏が置いてあって、独特な雰囲気なんですよね…

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全然知りませんでしたが、「石上寺の石造物群 」は市指定の文化財なんですね。独特とかいってすみません。

神社と寺の両方が戦前に存在したのは調べました。館林市立図書館で。
神社はいったい何処へ行ってしまったのでしょう。といっても合祀か廃絶かしかないのでしょうが…合祀先の神社までは調べることができませんでした。鬼門封じの神社なのに移してしまったら箕輪城は守れませんね。
祭神は、石上神宮と同じ布都御魂神だったようです。


【追記:2022年1月】城跡の東、ほど近い場所に諏訪神社があり(高崎市箕郷町東明屋512−2)、そこに合祀されているという情報をキャッチしました。Googleストリートビューで境内の様子を見ると、拝殿の左側に「石上神社」と彫られた碑が確認できます【追記ここまで】

高崎市三ツ寺町の石上寺も立ち寄ってきました。
そう、「三ツ寺」にあるお寺なのです。豪族居館遺跡として名高い「三ツ寺1遺跡」からは直線距離で700メートルほどでしょうか。

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県道25号線を堤下公園前あたりから西へ入っていくと、三ツ寺公園があります。公園に面して、上のような寺号標が立っていました。公園の駐車場に車を置けるので便利です。
で、これをさらに拡大すると

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まさに山号は「布留山」です。
もともとは市内浜川町にあって、移転してきたらしいです。浜川町は上述のとおり、旧長野郷にふくまれており、長野氏ゆかりの地です。
井伊氏が箕輪から高崎へ移ったことにともない、石上寺も箕輪を離れたともいわれます。現在地に落ち着くまで変遷があったんですね…。

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私が訪れたときには、ちょうど本堂に檀家の方々が大勢いらしていたようでした。静かな箕輪の石上寺とは対照的なように感じました。


初出:『天の神庫も樹梯のままに。』
「箕輪の石上寺」http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51696815.html
「石上寺と石上神社」http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51699917.html
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