聖徳太子に関する最古のまとまった伝記資料と評価されているのが、『上宮聖徳法王帝説』です。
平安時代前期の成立と見られています。

少し気になっていたので、口語訳をこころみました。
「古代史獺祭」さんのテキストと、沖森卓也氏・佐藤信氏・矢嶋泉氏『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』の校訂をもとにしています。

いまひとつ明快な文章にならず、申し訳ないです。
それとは別に、用語がかなり難しくて、文章と関係無いところで意味がわからなくなりそうですね。人名や古代文献特有の用語、仏教用語については、上記の本や岩波文庫の『上宮聖徳法王帝説』の注をご覧になるといいかもしれません。これらの本は原文と訓読文、注釈だけで、現代語訳は載っていません。

上宮聖徳法王帝説―注釈と研究
信, 佐藤
吉川弘文館
2005-02-01


■は現存の写本で欠けているため訳せない文字。
節ごとの見出しももちろん原文にはありません。わかりやすいだろうということで、つけておきました。
[ ]は分注です。
( )は原文にはない注です。


1.聖徳太子のきょうだいたち


上宮聖徳法王帝説。

伊波礼池辺双槻宮(いわれいけのべのなみつきのみや)で天下を治めらられた橘豊日(たちばなのとよひ:用明)天皇が、庶妹の穴太部間人王(あなほべのはしひとのひめみこ)を娶って大后とし、お生みになった子は、厩戸豊聡耳聖徳法王(うまやどのとよとみみのしょうとくほうおう)、つぎに久米王(くめのみこ)、つぎに殖栗王(えくりのみこ)、つぎに茨田王(まんだのみこ)である。
また、天皇が蘇我伊奈米宿祢大臣(そがのいなめのすくねおおみ)の娘で、名は伊志支那郎女(いしきなのいらつめ)を娶ってお生みになった子は、多米王(ためのみこ)である。
また、天皇が葛木当麻倉首(かずらきのたぎまのくらのおびと)、名は比里古(ひりこ)の娘である伊比古郎女(いひこのいらつめ)を娶ってお生みになった子は、乎麻呂古王(おまろこのみこ)、つぎに須加弖古女王(すかてこのひめみこ)である。[この王女は、伊勢の神前に斎き奉って、三代の天皇の御世に至った。]
合わせて、聖王の兄弟姉妹は七人の皇子女がいらっしゃる。

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2.聖徳太子の子どもたち


聖徳法王が、膳部加多夫古臣(かしわでのかたぶこのおみ)の娘、名は菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)を娶ってお生みになった子は、舂米女王(つきしねのひめみこ)、つぎに長谷王(はせのみこ)、つぎに久波太女王(くはだのひめみこ)、つぎに波止利女王(はとりのひめみこ)、つぎに三枝王(さえぐさのみこ)、つぎに伊止志古王(いとしこのみこ)、つぎに麻呂古王(まろこのみこ)、つぎに馬屋古女王(うまやこのひめみこ)である。[以上、八人である。]
また、聖王が、蘇我馬古叔尼大臣(そがのうまこのすくねおおみ)の娘、名は刀自古郎女(とじこのいらつめ)を娶ってお生みになった子は、山代大兄王(やましろのおおえのみこ)、[この王は、賢く尊い心を持っていて、身命をとして人民を愛された。後世の人が、父の聖王と混同するのは誤りである。]つぎに財王(たからのみこ)、つぎに日置王(ひおきのみこ)、つぎに片岡女王(かたおかのひめみこ)である。[以上、四人である。]
また、聖王が、尾治王(おわりのみこ)の娘、位奈部橘王(いなべのたちばなのみこ)を娶ってお生みになった子は、白髪部王(しらかべのみこ)、つぎに手島女王(てしまのひめみこ)である。
合わせて、聖王の子は十四人の王子女である。

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3.聖徳太子の孫と異父妹兼姪


山代大兄王が、庶妹の舂米女王を娶ってお生みになった子は、難波麻呂古王(なにはのまろこのみこ)、つぎに麻呂古王(まろこのみこ)、つぎに弓削王(ゆげのみこ)、つぎに佐々女王(ささのひめみこ)、つぎに三島女王(みしまのひめみこ)、つぎに甲可王(こうかのみこ)、つぎに尾治王(おわりのみこ)である。
聖王の庶兄の多米王が、その父の池辺天皇が崩御された後に、聖王の母の穴太間人王を娶ってお生みになった子は、佐富女王(さほのひめみこ)である。

上宮聖徳法王帝説 太子の孫と異父妹

4.聖徳太子の祖父・父・伯叔の天皇たち


斯貴島宮(しきしまのみや)で天下を治められた阿米久爾於志波留支広庭(あめくにおしはるきひろにわ:欽明)天皇[聖王の祖父である]が、檜前(ひのくま:宣化)天皇の娘、伊斯比女(いしひめ)命を娶ってお生みになった子は、他田宮(おさだのみや)で天下を治められた天皇である怒那久良布刀多麻斯支(ぬなくらふとたましき:敏達)天皇である。[聖王の伯父である。]
また、宗我稲目足尼大臣(そがのいなめのすくねおおみ)の娘、支多斯比売(きたしひめ)命を娶ってお生みになった子は、伊波礼池辺宮で天下を治められた橘豊日天皇である。[聖王の父である。]その妹が、少治田宮(おはりたのみや)で天下を治められた止余美気加志支夜比売(とよみけかしきやひめ:推古)天皇である。[聖王の叔母である。]
また、支多斯比売の同母妹、乎阿尼命(おあねのみこと)を娶ってお生みになった子は、倉橋宮(くらはしのみや)で天下を治められた長谷部(はせべ:崇峻)天皇である。[聖王の叔父である。]その姉は、穴太間人王である。[聖王の母である。]
右の五人の天皇は他の系統の人を交えることなく、つぎつぎに天下を治められた。[なお、倉橋天皇の即位順は第四番目、少治田天皇は第五番目にあたる。]

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5.冠位十二階


少治田宮で天下を治められた天皇の御世に、上宮厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやどのとよとみみのみこと)は、島大臣(しまのおおみ:蘇我馬子)とともに天下の政事を補佐し、仏教を興隆させられた。元興寺・四天王寺などの寺を建て、冠位十二階の制度をお定めになった。大徳、少徳、大仁、少仁、大礼、少礼、大信、少信、大義、少義、大智、少智、である。

6.厩戸豊聡八耳命


池辺天皇の后、穴太間人王は、厩舎の戸を出られたとき、にわかに上宮王をお産みになられた。上宮王命は、幼いころから明敏で知恵があった。成長されてから、一時に八人が言うことを聞いてそれぞれの道理を弁別された。また、一を聞いて八を知られた。そのため、名づけて厩戸豊聡八耳命(うまやどのとよとやつみみのみこと)と申しあげる。
池辺天皇は、その太子・聖徳王をたいへん愛しく思われて、皇居の南の上大殿に住まわさせられた。そのため、上宮王(かみつみやのみこ)と呼ばれた。

7.慧慈法師


上宮王は、高句麗の慧慈法師(えじほうし)を師とされた。上宮王命は、よく涅槃常往・五種仏性の道理を悟り、法華三車・権実二智の趣意を解き、維摩の不可思議解脱の意に深く通じられた。また、経部と薩婆多の論説を知り、三玄・五経の意を知るとともに、天文・地理の道をも照らされた。ときに、法華経などの経疏七巻をお作りになった。名づけて上宮御製疏(三経義疏)という。
太子の質問された事柄について、師は答えられないところがあった。太子は夜の夢に、金人(仏)がおいでになって、わからなかった条理について教えたということをご覧になった。太子は夢から覚めた後、理解することがおできになった。そこで師にお伝えになったので、師もまた理解した。このようなことは、ひとつふたつのみではなかった。

※涅槃常往・五種仏性:涅槃経の教義。
※法華三車・権実二智:法華経の要点。悟りに至る過程を3つの乗り物(羊、鹿、牛の車)にたとえるのが三車。現象と本質の二面から物事を理解するのが権実二智。
※維摩の不思議解脱:維摩経の教義。一名を不可思議解脱経。
※経部と薩婆多:経量部と薩婆多部はともに小乗仏教の学派。
※三玄・五経:外典(仏教以外の学問)。三玄は荘子、老子、周易。五経は尚書など儒教の古典。

8.太子創建の七寺


太子は七つの寺を創建された。四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺[宮とあわせて川勝秦公(秦河勝)に授けた。]、池後寺、葛木寺[葛木臣(烏那羅)に授けた。]である。

9.勝鬘経を講ず


戊午年(西暦598年)四月十五日、少治田天皇は上宮王に請うて、勝鬘経を講義させられた。その姿は僧侶のようであった。王たちや公主、臣、連、公民に至るまで、信奉して褒め称えないものはなかった。三日間で講義は終了した。天皇が聖王に布施された物は、播磨国揖保郡佐勢(はりまのくにいほのこおりさせ)の地の五十万代である。聖王は、この地を法隆寺の寺地とされた。[いま播磨にある田は、三百余町である。]

10.聖徳太子薨逝


慧慈法師は、上宮の御製の疏(そ)を持って本国に帰り、それを伝えた。壬午年(622年)二月二十二日の夜半に、聖王は薨去されたという。慧慈法師はこれを聞いて、聖王命のために経を講じ、願を起していった。「上宮の聖に逢って、きっと仏の教えを得ることができると思う。わたくし慧慈は、来年の二月二十二日に死ねば、きっと聖王に逢って、したしく浄土でお仕えしよう」ついにその言葉のとおりに、翌年の二月二十二日になって病になり、亡くなった。

11.薬師像光後銘

池辺大宮で天下を治められた天皇が病気になられた、歳次丙午年(586年)、大王天皇(推古)と太子とを召し、誓願しておっしゃった。「我が病がおだやかになってほしいと思う。そこで、寺と薬師像を作って仕え奉ろう」と詔された。しかしそのとき、崩御されて造営が間に合わなかったので、少治田大宮で天下を治められた大王天皇と、東宮聖徳王とでご命令を受けたまわって、歳次丁卯年(607年)に仕え奉った。


右は、法隆寺金堂にいらっしゃる薬師像の、光背の銘文である。すなわち、寺を造りはじめた由来である。

12.釈迦三尊像光後銘

法興元世一年、歳次辛巳(621年)十二月、鬼前大后(かむさきのおおきさき)が崩御された。翌年の正月二十二日に、上宮法王は病重く治られなかった。干食(かしわで)王后もまた病気になり、ともに床に着かれた。ときに、王后・王子らと諸臣は深く憂い、ともに発願した。「三宝を仰ぎ頼って、釈迦像の大きさを上宮法王の姿を映して造ろう。この願の力をいただいて、病を癒し寿命を延ばして、現世におだやかに留まりますように。もし、定まった業のためこの世から離れられるのなら、死後は浄土へ登り、はやく悟りに至ってくださいますように」と。二月二十一日癸酉に、干食王后は亡くなられた。翌日、法王も崩御された。
癸未年(623年)三月中旬、誓願のとおり謹んで釈迦の尊像と脇侍、荘厳具を造り終えた。この小さな善行によって、道を信じる知識たちは、いま安穏である。死後は三人の主に従い申しあげて、三宝に帰依し、成仏の境地に至って、六道を輪廻する衆生も、苦しみの因縁からまぬがれ、同じように菩提に至るだろう。この像は、司馬鞍首止利仏師(しばのくらつくりのおびととりぶっし)に造らせた。


右は、法隆寺金堂にいらっしゃる釈迦像の、光背の銘文である。以上に述べたとおりである。

※知識:仏教サークル。信仰で結ばれた集団。
※三主:穴太部間人皇太后(鬼前大后)、聖徳太子(上宮法王)、膳妃(干食王后)の三人。

13.釈迦三尊像光後銘の釈


解釈していう。「法興元世一年」というのは、よくわからない。ただ、帝記を推量していう。「少治田天皇の御世に、東宮厩戸豊聡耳命と大臣宗我馬子宿祢は、ともに公平にあきらかにして三宝を立て、はじめて大寺を建てられた」そのため、「法興元世」というのである。これがすなわち、銘文に「法興元世一年」とあるのである。
後世に見る人が、もしこれを年号と考えても、それは正しいことではない。しかしながら、「一年」という記述は、その意味をなしがたい。しかし、意味を見いだせるのは、聖王の母である穴太部王が薨去された辛巳年(621年)は、少治田天皇の御世である。そのため、その年を指すがゆえに「一年」というのであり、異なっているわけではない。
「鬼前大后」というのは、すなわち聖王の母、穴太部間人王のことである。「鬼」前は、「神」である。なぜ神前皇后というのかというと、この皇后の同母弟、長谷部天皇が石寸神前宮(いわれのかむさきのみや)で天下を治められた。考えるに、その姉、穴太部王はその神前宮にいらっしゃったものか。そのため、神前皇后と申しあげるのである。

「翌年」というのは、壬午年のことである。
「二月二十一日癸酉に、干食王后は亡くなられた(即世)」というのは、聖王の妻、膳大刀自(かしわでのおおとじ)のことである。
「二月二十一日」というのは、壬午年の二月である。「翌日、法王も崩御された(登遐)」というのは、上宮聖王のことである。
「即世」・「登遐」というのは、亡くなることの異表現である。
そこで、いまこの銘文によって、壬午年一月二十日に聖王が病の床につかれたという。同じときに膳大刀自も病を得られた。大刀自は、二月二十一日に亡くなられ、聖王は二十二日に薨去された。これをもって、明らかに知ることができる。膳夫人が先の日に亡くなられ、聖王は後の日に薨去されたということを。すなわち、証拠になる歌がいう。
「斑鳩の 鳥見の井の水 生かなくに 食げてましもの 鳥見の井の水」(斑鳩の鳥見の井の水、亡くなってしまうのであれば飲ませてあげればよかったのに)
この歌は、膳夫人が病に臥せられ亡くなられようとするとき、水を欲しがられた。しかし、聖王はお許しにならなかった。ついに夫人はお亡くなりになった。そこで、聖王は誄してこの歌をお詠みになられた。それがすなわち、証拠である。ただ、銘文の意図するところは、夫人が亡くなられた日を明らかにする。聖王の薨去された年・月は記さない。そうはいっても、諸々の文献が明らかにするように、壬午年の二月二十二日甲戌の夜半に、上宮聖王は薨去されたという。
「出生入死」というのは、おそらく生まれたところに行き帰る語か。
「三主」というのは、考えるに、神前大后、上宮聖王、膳夫人、あわせてこのご三かたか。

14.天寿国繍帳銘

斯帰斯麻宮(しきしまのみや)で天下を治められた天皇、名は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等(あめくにおしはるきひろにわのみこと)が巷奇大臣(そがのおおみ)、名は伊奈米足尼(いなめのすくね)の娘、名は吉多斯比弥乃弥己等(きたしひめのみこと)を娶って大后とされた。名を多至波奈等已比乃弥己等(たちばなとよひのみこと)をお生みになった。妹の名は等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと)と申しあげる。
また、大后の妹、名は乎阿尼乃弥己等(おあねのみこと)を娶って后とされた。名は孔部間人公主(あなほべのはしひとのひめみこ)をお生みになった。
斯帰斯麻天皇の子、名は蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等(ぬなくらふとたましきのみこと)が庶妹の名は等已弥居加斯支移比弥乃弥己等を娶って、大后とされた。乎沙多宮(おさだのみや)にいらっしゃって天下を治められた。名を尾治王をお生みになった。
多至波奈等已比乃弥己等は、庶妹の名は孔部間人公主を娶って、大后とされた。池辺宮にいらっしゃって天下を治められた。名を等已刀弥々乃弥己等(とよとみみのみこと)をお生みになった。尾治大王の娘、名は多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)を娶って、后とされた。
歳辛巳の(621年)十二月二十一日の夕方、孔部間人母王は崩御された。翌年の二月二十二日の夜半に、太子が崩御された。このとき、多至波奈大女郎は悲しみ嘆いて、おそれおおくも天皇(推古)に申しあげた。
「もったいなくはありますが、太子を思い懐かしむ心をおさえることができません。我が大王(太子)は、母王と約束したかのように他界されました。これほどつらくむごいことはありません。我が大王はおっしゃいました。『この世にあるものはすべて仮のものである。ただ、仏の教えだけが真実だ』そのお考えを考えるに、我が大王は天寿国で生まれ変わりなさるように、と思えます。しかし、その国の様子は目で見ることができません。願わくば、図を描くことで、大王がおいでになられてお生まれになられる様子を見たいと思います」
天皇はお聞きになられて、いたましく思われることしきりであった。告げて仰せになった。「我が子(孫娘)の申すことは、まことにそのとおりだと思う」諸々の采女らに勅して、繍帳二張を作らされた。絵を描く人は、東漢末賢(やまとのあやのめけ)、高麗加西溢(こまのかせい)、そして漢奴加己利(あやのぬかこり)である。監督者は椋部秦久麻(くらべのはたくま)である。


右は、法隆寺の蔵にある繍帳二張に縫いつけられた亀の背の上の文字である。

15.天寿国繍帳銘の釈


「巷奇」は蘇我である。
「弥」の字は、あるいは売(め)の音だろう。
「已」の字は、あるいは余(よ)の音だろう。
「至」の字は、あるいは知(ち)の音だろう。
「白畏天之」というのは、天はすなわち少治田天皇のことである。
「太子崩」というのは、すなわち聖王のことである。
「従遊」というのは、死ぬことである。
「天寿国」というのは、天といわれるとおりにすぎない。
「天皇聞之」というのは、また少治田天皇のことである。
「令」は、監のようなものである。

16.巨勢三杖の歌


宮に参上したとき、巨勢三杖大夫(こせのみつえのまえつきみ)が歌った。
「斑鳩の 鳥見の小川の 絶えばこそ 我が大君の 御名忘らえめ」
斑鳩(いかるが)の鳥見(とみ)の小川の流れが絶えたなら、我が大君の御名も忘れるだろう(絶えることはありえないから御名を忘れることはない)
「みかみをす たばさみ山の あぢ陰に 人の申しし 我が大君はも」
みかみをす、タバサミ山のアヂの陰にいらっしゃると人が申していた我が大王です
「斑鳩の この垣山の 下がる木の 空なる事を 君に申さな」
亡くなられたことを知った私が、斑鳩のこの垣山の枝の垂れ下がった木のようになっていることを、君に申しあげたい

17.建立仏法


丁未年(587年)の六月・七月に、蘇我馬子宿祢大臣は、物部守屋大連(もののべのもりやのおおむらじ)を伐った。このとき、大臣の兵士たちは打ち勝つことができずに退いた。そこで、上宮王は四天王像をかかげて兵士たちの前に立て、誓って仰せられた。「もしこの大連を滅ぼすことができたら、四天王のために寺を造り、尊んで重く供養いたしましょう」そうして、兵士たちは勝つことができて、大連を殺すことができた。こうして、難波に四天王寺が造られた。聖王がお生まれになって、十四年のことである。
志癸島(しきしま)天皇の御世、戊午年(538年)十月十二日に、百済国主の聖明王がはじめて仏像・経教・僧らを伝え奉った。みことのりして、蘇我稲目宿祢大臣に授け、興隆させた。庚寅年(570年)、仏殿を焼き滅ぼし、仏像を難波の堀江に流し捨てた。少治田天皇の御世の乙丑年(605年)五月、聖徳王は島大臣とともに計画して仏法を立て、さらに三宝を盛んにされた。そうして五行になぞらえて爵位を定められた。七月に、十七余の法を定められた。

18.上宮王家滅ぶ


飛鳥(皇極)天皇の御世、癸卯年(643年)十月十四日に、蘇我豊浦毛人大臣(そがのとゆらのえみしのおおみ)の子の入鹿臣、別名林太郎は、伊加留加宮(いかるがのみや)にいらっしゃる山代大兄とその兄弟たち、合計十五人の王子たちをことごとく滅ぼした。飛鳥天皇の御世、乙巳年(645年)六月十一日に、近江(天智)天皇[当時二十一歳]は、林太郎を殺害された■■。翌日には、その父の豊浦大臣の子・孫たちをみな滅ぼされた。

※■■:林太郎に続けて「入鹿」か。

19.歴代天皇と陵墓


志帰島天皇は、天下をお治めになられること四十一年。辛卯年(571年)四月に崩御された。御陵は檜前(ひのくま)の坂合岡にある。
他田天皇は、天下をお治めになられること十四年。乙巳年(585年)八月に崩御された。御陵は河内の志奈我(しなが)■■にある。
池辺天皇は、天下をお治めになられること三年。丁未年(587年)四月に崩御された。河内の志奈我の中尾が御陵ともいう。
倉橋天皇は、天下をお治めになられること四年。壬午年(592年)十一月に崩御された。実は、島大臣に暗殺された。御陵は倉橋岡にある。
少治田天皇は、天下をお治めになられること三十六年。戊子年(628年)三月に崩御された。御陵は大野岡にある。河内の志奈我の山田村にあるともいう。
上宮聖徳王は、法主王とも申しあげる。甲午年(574年)のお生まれで、壬午年(622年)の二月二十二日に薨去された。四十九歳である。少治田宮の時代に東宮となられた。御墓は、河内の志奈我岡にある。

※■■:延喜諸陵寮式に敏達天皇陵は「河内磯長中尾陵」というので「中尾」か。

20.裏書


  • 庚戌年(590年)の春三月、学問尼の善信(ぜんしん)らが百済から戻り、桜井寺(さくらいでら)に住んだ。いまの豊浦寺(とゆらでら)である[当初は桜井寺と呼ばれ、のちに豊浦寺というようになった。]。曽我大臣というのは、豊浦大臣と、云々。
  • 観勒(かんろく)僧正は、推古天皇の即位から十年の壬戌年(602年)に来日した、云々。
  • 仏工・鞍作鳥(くらつくりのとり)。考えるに、祖父は司馬達等(しばたっと)、父は多須奈(たすな)である。
  • ある書がいうに、播磨の水田は二百七十三丁五反二十四歩である、云々。別の書がいうには、三百六十丁である、云々。
  • ある書がいうに、誓願して寺をつくり、三宝をつつしみ敬った。舒明天皇の治世十三年の辛丑年(641年)春三月十五日、浄土寺の造営を開始した、云々。
    注が記す。「辛丑年にはじめて用地を平らにした。癸卯年(643年)に金堂を建てた。戊申年(648年)にはじめて僧侶が住んだ。己酉年(649年)三月二十五日、大臣はわざわいに遭った。癸亥年(663年)に塔をととのえ造った。癸酉年(673年)十二月十六日、塔の心柱を建てた。その柱礎のなかに丸い穴をつくり、浄土寺と刻んだ。そのなかに蓋のある大鋺一客を置いた。鋺には色々な珠玉を盛り、そのなかに塗金の壺がある。壺にもまた色々な珠玉を盛り、そのなかに銀の壺がある。銀壺のなかに純金の壺があり、そのなかに青瑠璃の瓶がある。瓶のなかに仏舎利八粒を納めた。丙子年(676年)四月八日、露盤を上げた。戊寅年(678年)十二月四日、丈六仏の像を鋳造した。乙酉年(685年)三月二十五日、仏像の開眼供養を行った。山田寺がこれである。」[注は承暦二年の戊午年(1078年)、南一房でこれを写した。真曜が書いた本である。]
  • 曽我日向子臣(そがのひむかこのおみ)、字(あざな)は無耶志臣(むさしのおみ)は、難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)で天下を治められた天皇(孝徳天皇)の時代に、筑紫大宰の長官に任じられた。甲寅年(654年)十月十日、天皇の病気の快癒を祈って般若寺を起こしたのである、云々。■■京のときの定額寺である。
  • 曽我大臣。推古天皇の治世三十四年秋八月、島大臣[曽我である]は病の床に伏した。大臣の平癒のために、男女あわせて一千人■■■。別の書によると、二十二年の甲戌年(614年)の秋八月、大臣は病の床に伏した。三十五年の夏六月辛丑に死去した、云々。

※豊浦大臣:蘇我蝦夷の通称。豊浦寺のある豊浦に邸宅を持っていたらしい。
※大臣:右大臣・蘇我倉山田石川麻呂。中大兄皇子を殺害しようとした疑いをかけられ自害した。
※曽我日向子:蘇我日向。蘇我倉山田石川麻呂の弟。
※曽我大臣:蘇我馬子。
※■■■:『日本書紀』推古二十二年秋八月条には、「為大臣而男女并一千人出家(大臣の平癒のために、男女あわせて一千人を出家させた)」とある。




【追記:2021年12月】古代史料テキストを提供くださっていたwebサイト「古代史獺祭」さん http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/ は公開を終えられたようです。




初出:「『上宮聖徳法王帝説』現代語訳」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/52087288.html 2013/07/30
裏書追加:2022/05/26