石川県石川郡野々市町末松2丁目の末松廃寺です。2009年の4月に旅行した時の画像。
金沢駅からレンタサイクルをここまで漕いでくるのは無謀でした。

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末松廃寺は白鳳期の伽藍遺跡で、一時衰退したのち、平安時代後期に再建され、鎌倉時代には廃絶したという変遷をたどったと見られています。
国指定の史跡で、公園として整備されていました。
案内板の写真も撮ってきたので、詳しくはそっちを見てください

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塔と金堂が東西に並ぶ配置で、特徴はなんといっても塔の巨大さです。
外側の柱の間隔は3.6mで、これが三間×三間の正方形に配置されています。つまり一辺は10.8m以上になるってことですね。
中央の心柱礎の幅が2m24cmと大きく、高さ約56mの七重塔とも考えられているそうです。当時としてはかなりの規模です。

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塔の大きさの割に、金堂はそんなに大きくはない感じです。

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金堂のほう、コンクリートの板の違いで、平安時代の建築物の位置も判るようになっています。

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この寺院の創建は、当地の有力豪族・道氏によると見られています。
欽明紀三十一年四月条・五月条に、高句麗からの遣いが流れ着いた際、道君が自分こそ天皇だと虚偽をいい、高句麗使の持っていた天皇への贈り物を搾取したものの、江渟臣が上京してこれを密告したため、悪事が明らかになったという伝承が載っています。
江渟臣は江沼臣で、加賀国江沼郡(小松市あたり)を本拠とする氏ですが、道君とは対立的な関係にあったものでしょうか。
江沼臣が国造本紀の江沼国造を出した氏なのは確実と思われますが、道君を高志国造(越国造)と見る説もあるようです。高志国造の故地には、この加賀説のほかに越前説や越後説もあるんですよね。国造本紀の並びが、若狭国造→高志国造→三国国造、なので、私はどれかというと越前説が良いように思うのですが、どうでしょうか。

いずれにせよ、道君が在地で天皇と偽ったと伝えられるような、独自性を持つ豪族だったといえそうです。
石川郡の郡領を輩出し、和名抄には味知郷の地名もみえます。味知郷はここからさらに奥に入った鶴来のあたりをあてるのが有力ですが、一帯が本拠なのは間違いなさそうです。

天智天皇との間に施基皇子をもうけた、道君伊羅都売がこの氏に出自を持ちます。


初出:「末松廃寺跡」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51852728.html 2010年08月21日