足羽神社は、福井県福井市足羽上町に鎮座します。『延喜式』神名帳の越前国足羽郡に「足羽神社」が見えます。

参拝したのは、今年(2009年)のゴールデンウィーク。足羽山公園の中の道へ車で入って、どちらかというと継体天皇像に近いほうへ路駐しました。
神社に向かって行くと地元の小学生らしい子らがぞろぞろ継体像の奥にある広場のほうへ入っていくのに遭遇。「おはようございまーす!」と元気に挨拶されちゃいました。変質者だと思われたくない&通報されたくなくて、私のほうから少年少女に声をかけることはしていないので、向こうから挨拶をもらえてよかったです。

c7607b33

本殿中央に主祭神の継体天皇、左の相殿に生井神・福井神・綱長井神が、右の相殿に阿須波神・波比岐神が祀られているそうです。
継体天皇以外は、いわゆる宮中式内社のうち「坐摩巫祭神」の五座です。
社家の馬来田氏は、継体天皇の皇女の馬来田皇女の末裔を称するのだとか。

443a3937

社殿の前のシダレザクラは市指定の天然記念物なのだそうです。ほかには参道の階段の途中のモミジも立派でした。

94ac59ea

式内足羽神社はその祭神を「一座」とするのですが、延喜式が編纂された当時には、足羽神が継体天皇のことだとする説は存在していなかったようです。
延暦十年四月十五日に従五位下の神階に叙せられて(続紀)、仁寿元年正月には従四位下に昇叙し(文徳実録)、天慶三年には従三位に昇って(日本紀略)います。
位階は臣下が賜るものであり、皇位についた人物に与えられることは基本的にありません。継体天皇は日本書紀によって朝廷が保証した天皇ですから、たとえ古い時代の人物でも、簒奪説がいうような元は皇族でない地方豪族であっても、平安時代の天皇たちから臣下あつかいされるようなことはないはずです。
そういうわけで、足羽神社の祭神はもともと別の神で、継体天皇は後世にあてられたものとする見方が有力なようです。

当地で祀られる神としてふさわしいものを考えるとき、神社の鎮座地・足羽山に広がる足羽山古墳群が気になってきます。継体天皇像が立っている丘も山頂古墳とよばれる古墳です。公園をつくる際に削られたりしたそうで、旧態をそのまま残してはいないといわれるのですが、大型の円墳と見られています。

8e6f3c3b

旧足羽郡内では、最も大規模な古墳群です。

この古墳群を築いた人たちは、やはりこの地域を支配していた豪族なのでしょう。
続日本紀には宝亀二年八月と延暦二年二月に「足羽臣眞橋」、宝亀五年七月と宝亀八年正月に「足羽臣黒葛」が見えます。黒葛のほうは女孺とありますから女性ですね。
天平三年の越前国正税帳には「足羽郡司少領阿須波臣眞虫」、天平神護二年の足羽郡司解には「足羽郡少領外従八位下阿須波臣束麻呂」などが見え、この「アスワ」氏というのは、足羽郡では郡領を輩出した有力豪族だったと見られます。
足羽山古墳群は、彼らの先祖たちの墳墓である可能性を考えたいです。そして当然、彼らが当地で祀っていた神も存在したはずです。

7c6df288

「継体天皇御世系碑」という碑も境内にはありました。弘化三年に建てられたものだそうで、「品陀天皇能五継乃御孫…」とか継体天皇の系譜について書かれてました。

足羽氏との関係で注目されるのが、足羽神社の祭神のひとつに数えられている「阿須波神」です。
古事記によれば大年神の子とされています。つまり、国津神に位置づけられているんですね。
「坐摩巫祭神」については、どうしてこれらの神が宮中で祀られなくてはならないのか、なかなかよくわからないのですが、阿須波神は農耕神として祀られていると考えられているんでしょうか?

仮に阿須波神が、もともとは足羽氏の祀る神だったとしたら、宮中で祀られるようになる契機はやはり継体天皇の即位しか考えられません。
となると、足羽氏も継体擁立で一定の役割を果たしたからということになりますが、この氏に限らず、北陸に出自を持つ氏が継体即位の後で中央政界の有力者となった明確な例はないようで、どうにもはっきりしません。私は大伴金村ら畿内の豪族によって継体が招かれたという書紀の記述はある程度事実を反映していて、彼らによって北陸や近江、美濃尾張の継体が基盤にしていた地域の豪族の中央進出は阻害されていたのでは…既に畿内と畿外の意識は成立していて、中央の中枢には入り込みにくかったのでは…なんて思ってます。
足羽氏が力をふりかざして捻じ込んできたのではなく、むしろ継体天皇自身によって信仰が接収されたなんてことはないでしょうかね。

もうひとつ、坐摩巫祭神五座のうちで面白いのが「福井神」です。
「さくいのかみ」と読むのが普通ですが、県名にもなっている地名「福井」と関係があるのかないのか。
市辺押磐皇子の弟、御馬皇子は殺される間際に「三輪の磐井」という井戸に呪いをかけたといいますが、これは首長のおこなう水の祭祀に用いる聖井への呪詛なんでしょう。「福井」も継体天皇が越前で行っていた祭祀に関係するもので、そのまま継体とともに宮中に入っていったのかもしれません。

地方で祀られていた神が、畿内でも中枢の宮中で祀られるようになる…なんて想像をするのは楽しいです。

ところで、継体天皇を足羽神社の主祭神にあてた影響は大きかったようで、合祀されている於神社は欽明天皇、山方神社は宣化天皇、土輪神社は耳皇子というように、息子さんたちも式内社の祭神にあてられています。『特撰神名牒』や『神社覈録』のような明治期の書では、別の神が比定されていたり不明となっていたりするので、これらも「足羽神社の社伝を信用するなら」ということになるんでしょうか。


初出:「足羽の神」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51705777.html 2009年08月15日