群馬県前橋市にある大室古墳群。

前二子古墳

墳丘全長94メートル、後円部径69メートルの前方後円墳。6世紀初頭ころの築造と見られます。

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中二子古墳

墳丘全長111メートル、後円部径66メートルの前方後円墳。6世紀前半~中葉ころの築造。

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後二子古墳

全長106メートル、後円部径48メートルの前方後円墳。6世紀後半ころの築造。

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小二子古墳

全長38メートルの小前方後円墳。

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大室公園として整備され、駐車場もあるため見学しやすいです。
公園内の五料沼から望む赤城山は美しいです。沼自体は後世に作られたようで、古墳時代にはなかったらしいです。

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太田天神山古墳や保渡田三古墳ら大型古墳は隔絶した規模で築かれ、その被葬者は上毛野地域の王者的存在、ヤマトの大王を擁立する連合体の構成員だったと考えられます。
これらの大型古墳が築かれた以外の地域には、並び立つ規模の古墳は見られませんでした。
しかし、6世紀前半以降、その様相は一変します。古墳時代後期の群馬県における、墳丘全長60メートル超の古墳の総数は97基にも上り、うち100メートルを越えるものは16基もあります。まさに群雄割拠。
畿内の100メートル超の後期古墳が14基で、前方後円墳の時代が終焉に向かっていくことを考えるとき、この数字は驚異的ですらあります。

私はこれを、部民制の成立と関係すると見たいです。
つまり、それまで特定の大首長だけが、ヤマト王権との強い関係を独占的に結ぶことができていた。鉄や塩などの物資も、大首長から小首長へと流れていたと考えることができると思うのです。
部民制の始まりは、設置された部の管掌者の誕生を意味します。この管掌者は、もともと在地の豪族でしたが、それと同時に中央の上位の伴造氏の配下としての性格も持つことになりました。

たとえば、多野郡吉井町の矢田遺跡からは「物部郷」と刻まれた紡錘車が出土しており、多胡郡か、その近辺に物部が置かれたことがわかります。『続日本紀』に物部公の姓を賜ったことが見える物部蜷淵や磯部牛麻呂、金井沢碑に見える物部君午足らは、これに関係すると考えられるでしょう。
物部君は、カバネから見て、上毛野君や車持君と同じく豊城入彦命後裔氏族に属する土豪と見られます。そして同時に、中央の物部連と強いパイプを持つ配下として、現地で物部の部民をマネジメントする存在だったのです。

とはいえ、西日本のように、部民の管掌者が大型古墳を築くことができないほど弱体化させられ、中央の有力氏の配下になっていったのとは異なり、中央の勢力を背景に、独自の力を発揮できたところに関東地方の豪族たちの特色があるようです。
6世紀代の上毛野地域に、大型古墳が多いことを以上のように見たいと思います。

有力な集団が割拠するこの時期の上毛野において、頭ひとつ抜きんでた存在といわれるのが、大室古墳群の被葬者たちである。
前二子古墳→中二子古墳→後二子古墳と、非常に覚えやすい名称でありがとうな三基の古墳が、ほぼ三十年に一基づつ、つまり一世代に一基づつ、この古墳群では造営されました。
また、この三基を取り巻くように、勢多郡の粕川、前橋市の旧荒砥村の東西大室町、荒子町、今井町、飯土井町等、佐波郡の赤堀、伊勢崎市北部の旧殖蓮村等には、1000を越える数の小古墳の一大分布が見られます。しかも、この広大な地域の中には、大室古墳群の三基以外に、首長墓と考えることができそうな大型古墳はまったく存在しません。
すなわち、大室古墳群の被葬者集団は、赤城山南麓の広い地域を、少なくとも三世代に渡って安定して支配していたということができます。このようなあり方を見せる地域は、上毛野の中では他に見当たりません。
そして、この集団こそ、「上毛野君」なのではないか、と考える説があります。

初出:「大室古墳群」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/50889186.html 2007年01月28日