大田別ノート

物部厨どもが夢、それとも幻。

山津照神社

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滋賀県米原市能登瀬に鎮座する、山津照神社。
昨年(2009年)のゴールデンウィーク旅行の三日目に、米原駅前でレンタカーを借りて、一番最初の目的地にしたのがここでした。
上の写真のように、拝殿の前が芝生の広場になっていたのが印象的。きっと休日の日中に来たら、近所の子供たちが遊んでいたりするんでしょうね。

参道も下の写真のように、ほとんど芝だったと思います。玉砂利を敷いた厳かな感じもいいですが、こういうのも親しみが持てていいな、と思います。

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境内には、前方後円墳の山津照神社古墳があります。
主軸は参道とほぼ並行し、くびれ部あたりを少し削るようにして、境内社の八幡神社が建っています。

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墳丘の長さは、三つもあった案内板のうち、最も新しいものによると、46.2m。家形石棺を納めた横穴式石室と、そこから出土した遺物から、6世紀前半ころの築造と見られるようです。
塚の越古墳など一帯の古墳とともに群を成します。息長古墳群です。
天野川流域を基盤とした集団の奥津城と見られ、息長氏を被葬者にあてる説が有力なようです。

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この古墳についても、神功皇后の父、息長宿祢王の墓とする見方が一部でされていたようですね。
明治15年の参道拡張工事のときに発見された古墳なので、よく「そういう伝説がある」と古くから語り継がれているような言い方がされている点は疑問なのですが。古墳の存在自体は古くから知られていて、工事を口実にして主体部を掘り起こしちゃったのかしら。

このように、息長氏に縁故の場所の神社ということで、祭神や創建の事情についても息長氏と関連づける見方が、明治以降ずっと主流のようです。
ただ、神社側からはあまり積極的に主張されているというわけでもないようで、現在の祭神は国常立尊となっています。

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拝殿も本殿も立派で、落ち着いた雰囲気ですね。
息長古墳群は、5世紀代には有力な古墳を持たず、6世紀に入って前方後円墳を築くようになります。
この点、継体天皇との繋がりを考える人が多いです。天皇の妃のうち、麻組郎女は息長真手王の娘といいます。

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下の写真は手水舎です。
センサーが設置してあって、人が近づくと自動で水が出ます。離れてしばらくすると止まります。ハイテク。

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初出:「山津照神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51800249.html 2010年03月20日

水切古墳群

福井県福井市水切町にある、水切古墳群です。
去年(2009年)のゴールデンウィーク、足羽山の次に立ち寄ったのがここ。福井市中心部から、北西におよそ10kmほどの位置にあります。すぐ隣りが、川西中学校です。

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この横穴式石室は、福井県下では最大級の石室らしいです。
案内板が二つあって、それぞれ言っていることが違うんですよ…片方は前方後円墳、もう片方は径17mの円墳としています。どちらが新しいのでしょう?

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1号墳の石室、残っている天井石の一番手前の石(冠石?)に、「巌屋山」と大きく彫り込まれていて驚きました。
でも、それは序の口で、奥壁には仏様が描かれてしまっていたり。ずいぶん前から開口していたっぽいですね。
神社や寺院の所属物になると、古墳が保護されることもあるんですが、この再利用の仕方はちょっと石室を傷めるかも。しかし面白い。

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水切2号墳

2号墳は片袖の石室で、1号墳に比べるとやや小さい感じです。
1号墳は雄穴、2号墳は雌穴とも俗称されているとか。

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やはり奥壁には仏像が描かれているのでした。

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昭和57年に天井石と墳丘の一部を修復したとありましたが、羨道の外側部分の石積みもそのときのものなのなのでしょうか。

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水切3号墳

3号墳は、道路を挟んで北側の、稲荷神社の境内にあります。
というか、神社の建っている丘の斜面に、いきなり石室だけあるような印象でした。本来は墳丘を持っていたんでしょうが、現状ではよくわからなくなっています。

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こちらはかなり小さくて、中に入るには窮屈な思いをしなければなりません。

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そんな感じに、全長11mという石室をもつ一号墳をはじめ、すごく立派な石室でした。どうせなら公園化して、駐車場とかも整備してくれれば見学しやすいのに…。
それくらいの価値はありますよね。

案内板には、「男大迹王(後の継体天皇)ゆかりの古墳と考えられている」なんて書かれていました。
どういう意味での「ゆかり」なんでしょう。
時期的には、継体天皇の時代よりは下るもののように見えました。


初出:「水切古墳群」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51791371.html 2010年02月25日

「くれふしの里」牛伏古墳群

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くれふしの里古墳公園を訪ねたのは、2009年6月のこと。はに丸タワーすごいですね。この存在感。

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高さ17.3メートルあるそうです。
「機動戦士ガンダム」に登場するジオンの主力モビルスーツ、MS-06ザクは17.5メートルという設定なので、「ザクってこれくらいの大きさなんだなあ」と想像するにもうってつけですね。

内部には、「希望のはにわ」というものが仕込んでありました。解説に
「はにわの口にそっと手を入れてごらん。古代から、宇宙からのメッセージがあなたに届くよ」
なんて書かれていました。うさんくさいな。
作ったのは当時の内原町(水戸市と合併して消滅)ですが、よくやってくれたと思っちゃいます。

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あれですね、「ローマの休日」にも出てきた「真実の口」のパク…リスペクトアレンジですか。
私が行ったときには電源が落とされていたようで、口の中にに手をつっこんでも何も起こりませんでした。

ほかにも、水鳥型埴輪のような水飲み場があったりで楽しいです。

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東屋のかたちが前方後円型です。
下から見たのではわからないので、はに丸タワーありきの築造ですね。

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公園の名称の「くれふし」は、『常陸国風土記』那賀郡茨城里条にある、くれふし山から取ったそうです。
あれは三輪山型神婚譚に分類されるでしょうか。

ある兄妹の妹のもとに、夜な夜な通ってくる男がいて、妊娠して産んだ子は蛇でした。器に蛇を入れておくと、その器は食べ物でいっぱいになる奇跡が常に起こるので、これは神の子だとうということになって、兄妹(蛇の叔父と母)はとても養育しきれるものではない、と判断し、父なる神のもとへ行くように蛇に諭します。
しかし、一人の従者もつけずに追い出されることを嘆いた蛇は、別れの時についにイライラを爆発させ、雷撃で叔父を殺してしまいます。天に去ろうとする蛇に母は器を投げつけると、それに当って天へは昇れなくなり、この山にずっと留まることになりました。子孫が社を建てて祀っています。

という話です。すごく要約しててすみません。
「くれふし山」の「くれ」は暮れと同じ意味なんでしょうね。日が暮れてから神はやってきて夫婦の営みwをしたり、蛇の姿の子も明るいうちはしゃべることができないのに、日が暮れてからは母と仲良く語らったりしていたそうですから。
地名起源説話には本来の意味とは違った語呂合わせもよくあるようなので、ここも別の意味だった可能性はあるのでしょうけど。

現代人的な見方をすると、蛇の姿の子にも、叔父さんにも同情したくなりますよね…
神として崇めてもらいたいなんて願いは持っておらず、ただ家族でいたい気持ちと、神の子と判明した以上は祀らなくてはならないという気持ち。
「爰に子恨みを含みて事吐はず」みたいな表現を見ると、風土記の編纂時には、もうそういった文学的な理解の萌芽があったんじゃないかしらん、と思ってしまいます。
古墳公園のある一帯は、この伝説の舞台の地です。

そんな感じに、楽しい公園でした。
で、古墳公園というからには古墳ももちろんあります。牛伏古墳群が公園内に保存されています。一部は公園の外になっちゃいますが。

以下は古墳の写真です。
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井田松江古墳群

水谷千秋氏の『謎の渡来人 秦氏』を読んでいたら、静岡県沼津市井田の井田松江(すんごう)古墳群の名前がちらっと出てきました。秦河勝が富士川あたりまで常世神(虫なんだけど)信仰を取り締まりに行った話のなかで、その新興宗教の教祖だったらしい大生部多にからんで書かれていました。
この古墳群から近い沼津市西浦木負(きしょう)は、かつての伊豆国田方郡棄妾郷の遺称地なのだそうで、近年、そこから「大生部」と書かれた木簡が発見されているそうです。

もっとも、近いといっても徒歩で行こうと思えば木負から井田松江古墳群まではずいぶんかかりますし、この古墳群の被葬者が大生部氏の人物だったとまではいえないと思います。
井田は、沼津市に合併する前の君沢郡戸田村に属するんですかね。ここは、むかしは田方郡ではなくて、那賀郡に属したはず。延喜式神名帳の井田神社は、那賀郡にあったとされています。

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昨年(2008年)の3月に、この古墳群へ行ったことがあります。
訪れようと思ったのは、「物部分布」の伊豆の部分をご覧いただければわかるように、那賀郡に住んだ物部の人たちの存在を知ったからです。平城京まで、海産物を税として納めに行っていたんですね。
伊豆国造は国造本紀によれば物部氏の同族を称するので、伊豆に置かれた物部の管掌者も、国造を本宗家とあおぐ一族から選ばれたのではないか…と考えました。
この古墳群と関係するかはわかりませんが。


この一帯、古代においては、農業的には豊かな地とは見えないような気がしました。大きな平地が無いんですね。
代わって豊かさをもたらすものと見えるのが海です。物部某さんたちが納める税として選ばれた特産物がカツオなどの海産物だったのも、これを顕著にあらわしていると思います。
井田松江古墳群の立地も、かなり海を意識しているように思いました。高台の岬の上に古墳が並んでおり、海への眺望がすばらしく良いんですよ。私が行ったときも晴れていたので、富士山まできれいに見えました。

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平野を見おろす山の上の立地の古墳はありますね。私が行ったことのあるところですと、岐阜県の象鼻山古墳群や、長野県の森将軍塚古墳がそうでした。
あれは、やはり葬られる首長たちが、かつて支配していた土地を望めるような立地になってることがあるんじゃないかと思うのです。墳丘に登って平野を見おろすとき、王者の気分にひたれます。

平野ではなく、海を見おろす井田松江古墳群に葬られた人たちが、支配したもの、彼らを支えた富とは、海からの得られるもの…海産物以外なら、水運・交易のようなことでも…だったのではないか、という思いを、現地では強くしました。

伊豆といえば、枯野の船(応神紀)が知られます。これは狩野川流域のほうの伝説のようですが、戸田も近世は造船が盛んだったんでしょうか。
日本人が建造した最初の本格的な洋式帆船(君沢型帆船)は戸田で造られた…みたいな話が検索したらヒットしたもので。これはどこまで遡れる伝統なんでしょうね。

下写真は井田松江18号墳の石室です。発掘調査後、屋根つきで保存されています。
案内板によると、6世紀の終わり頃につくられた直径約11mの円墳。銀象嵌を施した円頭大刀の柄頭などが出土しているそうです。
石室の全長は約8m、高さ約2mで、伊豆の横穴式石室としては最大規模なのだとか。

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7号墳。

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19号墳

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10号墳

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菅ヶ谷横穴

今年(2009年)の6月に訪ねた、菅ヶ谷横穴墓群の写真です。静岡県袋井市国本にあります。
国本はずいぶん広いですね。ここはそのなかでも東寄りです。静岡カントリーの袋井コースというゴルフ場のなかにあります。
「所縁の史跡」のほうでもちょっといいましたが、和田岡古墳群の各和金塚古墳から近いです。式内郡辺神社の論社・富士浅間宮にも。



95基以上が確認され、消滅したものを含めれば100基を越す数といわれる、静岡県下屈指の横穴墓群。採集された土器からは、7世紀前半ころに盛んに築かれたと見られているようです。
ただ、完存している横穴は少ないようです。それから、ゴルフ場を作るときの造成や、自然に崖上が崩れたことで埋まっているのも多いとか。

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そんなわけで、データ上は大規模だといわれていることに期待しすぎると、現地でショボく感じることもあるかもしれません。

玄室の形は三角が多くて面白かったです。おおざっぱに描くと、こんな形なのです。
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この後、宇刈横穴墓群にも行ったのですけど、やはり三角形が並んでいました。といっても、宇刈のほうは菅ヶ谷以上に埋まってしまっているので、全体のうち、どれくらいの割合を占めているのかよくわかりませんでしたが。

おなじ静岡県でも、伊豆の柏谷百穴や北江間横穴墓群は、カマボコ形や四角形の断面だったと思います。



ただ、柏谷百穴では見なかった棺座のついているものはいくつかありました。お棺を乗せる台です。
下写真のものは、奥壁と平行に作りつけられています。

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吉見百穴だと、見学可能な棺座のあるものはすべて側壁と平行についていたと思います。
地域や造営集団によって違いが出るのでしょうか。興味深いですね。


三角だけでなく、五角形のものもありました。家形を意識しているのでしょうか?

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初出:「菅ヶ谷横穴」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51759803.html 2009年12月11日
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