福井県坂井市丸岡町高田の高向神社。参拝は去年(2009年)のゴールデンウィークでした。
延喜式神名帳の越前国坂井郡に、同名の神社があり、その比定社とされています。
書紀に、継体天皇は幼少のころに父の彦主人王を亡くし、母の振媛は故郷である当地に戻り、天皇を育てたとあります。
そのときの振媛の言葉とされるもののなかに、
「余、高向に帰寧ひがてらに、天皇を奉養らむ」
とあり、高向の注として「越前国の邑の名なり」とあります。
和名抄にみえる、越前国坂井郡「高向郷」がこの一帯にあてられています。
そのときの振媛の言葉とされるもののなかに、
「余、高向に帰寧ひがてらに、天皇を奉養らむ」
とあり、高向の注として「越前国の邑の名なり」とあります。
和名抄にみえる、越前国坂井郡「高向郷」がこの一帯にあてられています。
そんなわけで、祭神は振媛と応神天皇です。
継体天皇は応神天皇の五世孫という触れ込みで即位しましたからね。
振媛の出自については垂仁天皇の七世孫と、書紀は少しぼかしてありますが、古事記に石衝別王の後裔とある三尾氏が有力視されています。釈日本紀に引く上宮紀の系譜で、振媛(布利比弥)が伊波都久和希の子孫とされているからです。
ここ丸岡・松岡地域は、古墳時代前期から後期まで、断絶することなく有力な規模の古墳が継続して営まれた場所で、振媛は北陸随一の名族のお姫様だったと考えられます。
継体天皇は応神天皇の五世孫という触れ込みで即位しましたからね。
振媛の出自については垂仁天皇の七世孫と、書紀は少しぼかしてありますが、古事記に石衝別王の後裔とある三尾氏が有力視されています。釈日本紀に引く上宮紀の系譜で、振媛(布利比弥)が伊波都久和希の子孫とされているからです。
ここ丸岡・松岡地域は、古墳時代前期から後期まで、断絶することなく有力な規模の古墳が継続して営まれた場所で、振媛は北陸随一の名族のお姫様だったと考えられます。
神社はこじんまりとして周囲を田畑に囲まれた小さな集落のなかにあります。常駐の神職の方もいらっしゃらない、普通の神社です。
境内の由緒書には、「武内宿祢六世の孫高向氏」に縁故の地で、振媛もその氏の出だとありました。
高向氏は新撰姓氏録の右京皇別上にある高向朝臣のことと思われます。
「石川同氏。武内宿祢六世孫猪子臣之後也。」とあって、たぶんこれに発想を得て書かれた由緒なのでしょう。猪子臣は舒明即位前紀にみえる高向臣宇摩の父ともいわれるそうで、氏は天武十三年に臣姓から朝臣姓になっています。
本拠地には、河内国錦部郡の高向(河内長野市高向)をあてるのが通説のようです。
境内の由緒書には、「武内宿祢六世の孫高向氏」に縁故の地で、振媛もその氏の出だとありました。
高向氏は新撰姓氏録の右京皇別上にある高向朝臣のことと思われます。
「石川同氏。武内宿祢六世孫猪子臣之後也。」とあって、たぶんこれに発想を得て書かれた由緒なのでしょう。猪子臣は舒明即位前紀にみえる高向臣宇摩の父ともいわれるそうで、氏は天武十三年に臣姓から朝臣姓になっています。
本拠地には、河内国錦部郡の高向(河内長野市高向)をあてるのが通説のようです。
蘇我氏からの分岐は稲目と同時代とする見解もあるようですが、いずれにせよ六世紀のことで、振媛をこの氏と関係させるのは難しいようです。
同じ由緒書に、振媛は彦主人王との間に三児をもうけたと書かれていたのがちょっと気になります。
男大迹王は第一皇子だそうなので、ふたりの弟か妹がいたことになってるんでしょうね。小さい子が三人もだなんて、振媛かわいそうです。
でもどうしてこんな設定にされてしまったんでしょうね。
男大迹王は第一皇子だそうなので、ふたりの弟か妹がいたことになってるんでしょうね。小さい子が三人もだなんて、振媛かわいそうです。
でもどうしてこんな設定にされてしまったんでしょうね。
特に遺構が出てきたわけではないようなんですが、「高向の宮跡」は町指定の史跡になっているそうです。
こうやって貴重な伝承を守ろうというのですね。
こうやって貴重な伝承を守ろうというのですね。
案内板は上の古いものと、下写真の新しいものとで二つありました。
振媛想像図が描かれています。
初投稿時、「かなり上手い絵で素敵」と感想したら、歴史イラストレーターの早川和子氏によるものだという情報をいただきました。なるほど納得。
初出:「高向神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51838221.html 2010年07月06日