大田別ノート

物部厨どもが夢、それとも幻。

ヤマトタケルの墓 2/2



白鳥塚古墳

三重県鈴鹿市加佐登町に鎮座する加佐登神社。
うっかりして写真を撮り忘れました…鈴鹿郡鎮座の式内社「倭文神社」を合祀するともいうのに…惜しいことをしました。
この参道を登ったところに社殿があるのです。

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そして、神社の左手から後方へ少し行ったところにあるのが、白鳥塚古墳です。
本居宣長らが日本武尊の墳墓と見ていたため、明治の候補地でも最有力だったようですが、治定からは残念ながら漏れてしまいました。
従来は円墳と見られたり、明治期に石室を見たという口伝から六世紀の横穴式石室を持つ古墳と見られたりしていました。
しかし、平成17年の調査で、帆立貝式古墳であることが明らかになり、築造時期も五世紀前半と見られるようになりました。

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私が訪ねたのは平成18年のことですが、トレンチの跡などには気づきませんでした。きれいに埋め戻したんですね。
全長92メートル、後円部径77メートルといいますから、なかなかの規模です。
丘陵の頂上を利用して築かれているので、見た目はもっと大きく感じました。

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古墳の裾からは隣りの調整池がよく望めます。
このときはちょうど夕暮れ時で、日が水面に反射してキラキラと奇麗だったのですが、全然うまく撮れませんでした…

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三津屋古墳

奈良県明日香村の牽牛子塚古墳、昨日の新聞でも一面に載ってました。すごいなぁ…
現地見学会の様子は、落王さんをはじめ、既に画像つきでUPされてるところがあって眼福ですね。裾部の石敷きが現代のコンクリートタイルを思わせ、築造当初はさぞ奇麗だったんだろうと思います。


ところで、新聞報道では
「天皇クラスの墓に限定される八角形墳だったことが分かり、被葬者は斉明天皇であることがほぼ確実になった」
とか
「7世紀、天皇陵にのみ許されたとされる八角形墳とわかった」
といったことがいわれています。本当でしょうか。
八角形なら、それを根拠になんでもかんでも天皇陵にしてしまってもいいのでしょうか。

三津屋古墳は群馬県北群馬郡吉岡町の大久保にある古墳です。
7世紀後半に築かれたと見られる、八角形墳です。
去年(2009年)の三月に、花粉と闘いながら見てきました。

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住宅地を抜けると、復元された異様な姿が忽然と現われ、ギョッとしたのを思い出します。
墳丘対角間は23m、一辺約9mほどの規模なのだそうです。
牽牛子塚古墳の墳丘の規模は、対辺長が約22mだそうですから、大きさではあまり変りませんね。

二段築成で周堀も持っていたといいます。そこは復元できなかったようです。
前庭には川原石が敷かれていたみたいです。

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群馬県下で八角形墳といえば、藤岡市の伊勢塚古墳もそうだといわれています。


他には山梨県笛吹市の経塚古墳や、鳥取県鳥取市の梶山古墳も…
この三つは6世紀後半~7世紀初頭くらいに築かれたものなので、牽牛子塚古墳や野口王墓古墳、束明神古墳とは時期が違うから同列に論じることはできないのかもしれません。別の意識によって築かれた可能性があります。

でも、三津屋古墳の場合はどうすればいいのでしょう。時期は7世紀後半と同じなわけで、畿内の八角形墳と似たような価値観・意識で築かれたことを否定するのは困難です。
解決方法はふたつあると思います。

(1)三津屋古墳には天皇が葬られていた
(2)八角形墳が天皇陵に限られるという見方が間違っている

(1)は、日本書紀や延喜式の記述に事実性を認めずに、かなり思い切った視点から解釈することになります。6世紀以降の天皇陵には、史料の記述と齟齬しない古墳が多く、あえてそういったトンデモ史観を持つ必要はないようです。
とすれば、(2)を考えなければなりません。

かつて、上円下方墳を、皇族の墳墓にあてる見方が有力でした。
しかし、清水柳北1号墳(静岡県)や武蔵府中熊野神社古墳・天文台構内古墳(東京都)、野地久保古墳(福島県)の存在は、これに疑問を投げかけました。
八角形墳にも、似たようなにおいを感じます。
調査されておらず墳形が不明な古墳や、擦り減って円墳だと思われている古墳のなかに、八角形墳も含まれているかもしれません。今後、全国的な調査の進展によって、明らかになる日が来るでしょうか。

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では内部へお邪魔します。
扉の鍵はかかっておらず、「開放時間は、午前8時から午後5時までです」「扉は必ず閉めてください」と書かれた札がかかっていました。

なかは石室…というより、見学室でした。
石材はかなり失われています。
墳丘が版築されてるのがよくわかるようになっています。10センチ~20センチ間隔くらいの横縞ですね。

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後代の人が、石室材を割って持っていこうとした跡も残っていて生々しいです。

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【追記:2021年12月】その後、この年の年末、大田皇女の墓にあてうる越塚御門古墳が発見され、牽牛子塚古墳は斉明天皇陵の条件を偶然とは思えないレベルで揃えることになり、天皇陵だったことが確定的になりました。新聞等でも、その段階までは「天皇陵として確実」のような報道は控えてほしかったです。

初出:「三津屋古墳」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51859446.html 2010年09月12日

ヤマトタケルの墓 1/2


武備塚

伊勢へ出かけたのは、2006年のゴールデンウィークのこと。
日本武尊ほどの有名人になると、墓地の比定地はいくつもあるようです。
三重県鈴鹿市長澤町の長瀬神社境内にある、「武備塚」もそのひとつです。

まずは神社の写真。

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長瀬神社は、『延喜式』神名帳の伊勢国鈴鹿郡に見える式内社です。
現在の祭神は、もちろん倭建命。
東大阪市に同じ名前の神社がありますが、無関係のようです。

社殿を右に見ながら奥へ進むと、このような「日本武尊御陵道」があります。

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そしてこれが武備塚。
塚…といっても、それほど高い盛り土が残っているわけではありません。うずたかい感じでした。

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塚の上に立ってるのは碑です。
『古事記』で倭建が亡くなるときに詠んだとされる歌「愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も」が彫ってあります。
明和七(1771)年のものらしいです。

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直径約25mの古墳時代後期の円墳かともいわれますが、実際のところはどうなんでしょうね。
江戸時代には、当地を治めた亀山藩がこれを日本武尊の墳墓としていたため、最も有力な候補でした。

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末松廃寺

石川県石川郡野々市町末松2丁目の末松廃寺です。2009年の4月に旅行した時の画像。
金沢駅からレンタサイクルをここまで漕いでくるのは無謀でした。

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末松廃寺は白鳳期の伽藍遺跡で、一時衰退したのち、平安時代後期に再建され、鎌倉時代には廃絶したという変遷をたどったと見られています。
国指定の史跡で、公園として整備されていました。
案内板の写真も撮ってきたので、詳しくはそっちを見てください

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塔と金堂が東西に並ぶ配置で、特徴はなんといっても塔の巨大さです。
外側の柱の間隔は3.6mで、これが三間×三間の正方形に配置されています。つまり一辺は10.8m以上になるってことですね。
中央の心柱礎の幅が2m24cmと大きく、高さ約56mの七重塔とも考えられているそうです。当時としてはかなりの規模です。

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塔の大きさの割に、金堂はそんなに大きくはない感じです。

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金堂のほう、コンクリートの板の違いで、平安時代の建築物の位置も判るようになっています。

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この寺院の創建は、当地の有力豪族・道氏によると見られています。
欽明紀三十一年四月条・五月条に、高句麗からの遣いが流れ着いた際、道君が自分こそ天皇だと虚偽をいい、高句麗使の持っていた天皇への贈り物を搾取したものの、江渟臣が上京してこれを密告したため、悪事が明らかになったという伝承が載っています。
江渟臣は江沼臣で、加賀国江沼郡(小松市あたり)を本拠とする氏ですが、道君とは対立的な関係にあったものでしょうか。
江沼臣が国造本紀の江沼国造を出した氏なのは確実と思われますが、道君を高志国造(越国造)と見る説もあるようです。高志国造の故地には、この加賀説のほかに越前説や越後説もあるんですよね。国造本紀の並びが、若狭国造→高志国造→三国国造、なので、私はどれかというと越前説が良いように思うのですが、どうでしょうか。

いずれにせよ、道君が在地で天皇と偽ったと伝えられるような、独自性を持つ豪族だったといえそうです。
石川郡の郡領を輩出し、和名抄には味知郷の地名もみえます。味知郷はここからさらに奥に入った鶴来のあたりをあてるのが有力ですが、一帯が本拠なのは間違いなさそうです。

天智天皇との間に施基皇子をもうけた、道君伊羅都売がこの氏に出自を持ちます。


初出:「末松廃寺跡」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51852728.html 2010年08月21日

久米多神社

福井県坂井市丸岡町下久米田に鎮座の久米田神社。
参拝したのは、2009年の5月です。
『延喜式』神名帳の越前国坂井郡に、「久米多神社」が見えます。

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祭神は、大伴金村大連です。

大伴金村といえば、武烈天皇や継体天皇らの即位において黒幕ともいわれる人物。皇統の維持に力を尽くした人とされています。
境内の由緒書(案内板)には、継体天皇即位の後
「再び高向の里を訪ねられた継体天皇が、大伴金村大連のそのお働きに深く感謝され建立されたと伝えられています」
と創建の由来が記されていました。

金村を神と崇めたのは継体天皇なんですか?
書紀によれば金村は継体天皇の死後も安閑・宣化・欽明天皇に仕えたとされていて、つまり祀られたのは生前のことになってしまうのですが…
興味深い社伝ですね。

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社名の「久米多」から、来目部が設置されたことが推測可能なのですが、来目部は久米氏を介在させて大伴氏の配下にあったものと見られます。
金村が祭神にあてられるのは、これと継体天皇縁故の地域であることを合わせ考えられた結果なんでしょうね。

後背の山の上に、六呂瀬山古墳群があります。
継体天皇の母、振媛の出身氏らしい三尾氏の一族の奥津城ともいわれています。
四世紀後半には造営が開始されており、一帯にはその後も脈々と有力な古墳が営まれ続けることから、在地の勢力がかなり強かったことが想定できると思います。
来目部もそこから割き取って設置ということになるかと思います。

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境内の入り口に、「弥六岩」という石がありました。
案内板によると、
弥六さんはたいそうな力持ちで、用水に架かる橋が時々傷んで村人が困っているため、石の橋を作ることを思い立ち、二里も離れた山奥から、長さ八尺もある大岩をかついできた…
という伝説が、この石にはあるようです。

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現状は八尺もあるようには見えませんが橋材の割れてしまった残りという可能性もあるのかしら?
用水路の水は豊かに流れていました。

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初出:「久米多神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51845504.html 2010年07月29日
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