大田別ノート

物部厨どもが夢、それとも幻。

羽咋神社

羽咋神社

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石川県羽咋市川原町に鎮座する羽咋神社。延喜式神名帳の能登国羽咋郡に羽咋神社があります。
参拝したのは2009年のゴールデンウィークのことです。
先に羽咋駅前から気多大社へ行き、戻ってきてから徒歩で向かいました。

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祭神は石撞別命。
相殿に石城別命と弟苅幡刀弁命が祀られます。

磐衝別命は垂仁天皇の皇子で、その出生については日本書紀の垂仁三十四年春三月条に逸話が載っています。
山城国へ行幸した天皇は側近の者から、山背大国不遅のむすめで綺戸辺という美人がいることを聞き、矛を使った占いをして吉兆と出たので、綺戸辺と召して後宮に入れた。彼女が磐衝別命を生み、その後裔が三尾氏である。
というものです。

古事記でも、石衝別王は、山代の大国之淵のむすめである弟苅羽田刀弁を母として生まれた垂仁天皇の皇子で、羽咋君氏と三尾君氏の祖であるといいます。

磐衝別命は天皇に即位しない、いわば傍流の皇子ということになります。日本書紀のような、出自を逸話をまじえて説明する記述のされ方は、やや特殊です。(仲哀天皇の母の両道入姫命も綺戸辺を母とするが、この文中には磐衝別命しか登場しない)

この特殊さを説明すると思われるのが、釈日本紀が引く上宮記、継体天皇の系譜を明らかにした部分です。
継体天皇の母・振媛(布利比弥命)は伊久牟尼利比古大王(垂仁天皇)の七世孫とされ、両者を繋ぐ系譜のなかに、「伊波都久和希」や「伊波智和希」がみえます。「磐衝別」とその子の「磐城別」を指すものと見られています。
つまり、日本書紀は継体天皇との関わりで、磐衝別命の母についての話を採用したと考えられそうです。
また、磐城別(石城別王)については、景行紀に三尾氏の祖とみえ、妹の水歯郎女が天皇妃となり、五百野皇女を生んだとあります。

ちなみに先代旧事本紀(天皇本紀)は、記紀の所伝に反し、丹波道主王のむすめの真砥野媛を磐撞別の母とします。
綺戸辺自体の存在が無かったことにされていますから、適当にそれ以外の妃の子にあてられてしまったものでしょうか。
国造本紀には羽咋国造がみえ、三尾君の祖の石撞別命の子の石城別王を国造に定めたといいます。ただし補任の時期は雄略朝とあり、景行天皇の時代に活躍したとされる磐城別とは時期が合いません。なんらかの混乱があるようです。

これらの史料によると、石撞別命と石城別命は、越前国坂井郡水尾郷などを拠点とし六呂瀬山古墳群など古墳時代前期から後期まで有力な古墳を築き続けた福井平野の勢力=三尾君の始祖であると同時に、羽咋君=羽咋国造の祖でもあることがわかります。
羽咋神社は、この地域で最も有力な勢力をほこった国造一族の奉斎によるものと見てよいでしょう。

面白いことに、神社の境内には、石撞別命と石城別命の墳墓と称する古墳があります。
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佐渡国分寺

2008年の秋に行ったときの写真です。いま思い返しても金山のインパクトが大きすぎて、他の史跡の印象が弱い…
新潟県佐渡市国分寺にある、佐渡国分寺跡です。奇麗に整備されていて、見学しやすくなっていました。

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伽藍配置は、南大門・中門・金堂が縦に並び、すこし離れた東側に塔があるタイプ。
具体的な創建年代は不明ですが、環境庁と県が立てた案内板によると、天平宝字八年に国から最勝王経・法華経各一巻が施入された年あたりの完成とする説が有力らしいです。

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礎石がかなり残されています。
ただ、国分寺としてはこじんまりした印象を受けました。

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塔心礎はさすがに大きいですね。ちょうどいい形の自然石に、少し手を加えた感じでしょうか?

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国分寺は今も法灯を伝える寺院で、建立は江戸初期と推定されるそうです。
こちらも趣きある建物がいくつもあって、素敵でした。

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萱葺きの瑠璃堂は寛文六年の建立らしいです。

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初出:「佐渡国分寺」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51901233.html 2011年01月28日

日撫神社

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滋賀県米原市顔戸の日撫神社。2009年の参拝でした。
山津照神社からは北西に約1.5kmほどのところです。
鎮座地名の顔戸(ごうど)は神戸に由来すると見る説があります。

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『延喜式』神名帳の近江国坂田郡に、「日撫神社」がみえます。
明治期以来、『神社覈録』『神社志料』など、『姓氏録』の河内国諸蕃にみえる火撫直氏と社名の日撫を関連づける見方が広く行われてきたようです。これだと阿智使臣(阿知使主)の後裔とされますから、東漢氏族の展開が想定されますが、近年では特に有力な見解ではないようです。

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一帯は後別当古墳などの古墳が点在する地域で、息長氏の影響をこの神社にも考える見方があり、社伝もそれに拠っています。神功皇后の祖先が代々住んだ地で、皇后がこの地を慕うことは深く、三韓から凱旋したのち祠を建て、父の息長宿祢王および国土経営と医薬に功のある少毘古名命を祀ったことを創始とする、というものです。
継体天皇の擁立勢力に息長氏をあてる説が有力化し、さらにそれに対する批判としてこの一帯の古墳の検討がなされ、息長氏と当地とのかかわりはせいぜい5世紀後葉までにしか遡れないことが明らかにされています。神功皇后云々がのちの付会であることは明らかです。しかし、息長氏縁故の地に鎮座するという点は動かしがたく、その関与による創建という可能性を考えるのは無駄ではないと思います。

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下馬石。
「書は平安時代中期の書家で日本三跡の一人小野道風の作と言われている」
と案内がありましたが、本当でしょうか。

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初出:「日撫神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51893088.html 2011年01月05日

立野神社

茨城県水戸市谷津町の立野神社です。
くれふしの里古墳公園から北方2kmほどのところにあります。参拝は、去年(2009年)の6月でした。
『延喜式』神名帳に載る、常陸国久慈郡の立野神社の論社のひとつなのだそうです。

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しかし、ここは旧那賀郡…
久慈郡からは離れていて、遷座してきたとも思えません。どういう比定がされたものでしょうか。

常陸大宮市のほうにも同じ社名の論社があって、そちらは物部氏族立野連の創建ともいわれているようです。
ここはどうなんでしょうね。

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祭神は級長津彦命・級長戸辺命。
『日本書紀』には、天武四年四月十日に、美濃王と佐伯広足を遣わして、風神を竜田の立野に祭らせたことがみえます。この地名の立野によって、風の神である級長津彦命らが祭神と考えられたのでしょう。

ちなみに、立野連のウヂ名も、同じく大和国竜田の立野を本拠にしたことにもとづくと考えられます。

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周囲を木々に囲まれ、古社の雰囲気は満点です。
集落からも少し距離があるので、静かで、落ち着いた境内でした。

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県道52号線、このあたりは道幅が狭いですね…。


初出:「立野神社」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51880675.html 2010年11月22日

八木岡瓢箪塚古墳

栃木県真岡市八木岡にある、瓢箪塚古墳の写真です。
芳賀地域では最も大きい古墳で、全長77メートルあります。前方後円墳です。
築造時期は、五世紀と六世紀の境目くらいと推測されているようで、大和田富士山古墳と鹿天神山古墳の間に入る時期のようです。
ちなみに、鹿天神山古墳のある真岡市鹿には隣接して物井の地名があり、下野国芳賀郡物部郷の遺称地とされます。



下写真は北側から見て、手前が前方部、奥が後円部だったと思います。

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後円部の上から前方部のほうを見ました。

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同じ五行川流域の首長墳とはいえ、鹿古墳群とは距離もあって、地形的にも繋がっているとはいえませんし、別々の集団によって築かれたと見たいところです。鹿古墳群のほうが、この古墳に葬られた豪族を抑えて台頭した、物部の現地管掌者の墳墓かも、と想像したいのです。

逆に前方部の上から後円部を見たところ。
保存状態はかなり良いんですが、樹木のせいで見通しが悪いんですよね

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主体部は未調査なので内容も不明なのですが、墳丘に特徴があります。
前方部の片方に、出っ張りがあるのです。これも造り出しの一種なのでしょうか。

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その特異な前方部付近。
ただの藪画像ですね。すみません。

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初出:「八木岡瓢箪塚古墳」『天の神庫も樹梯のままに。』http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51872504.html 2010年10月25日
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